「香穂子」

 度肝を抜かれた。日野を呼び捨てにしたのが男の声だったからだ。日野の姿が見えないかなあと、普通科の教室のある廊下を歩いていたとき、急に背後から声がしたのだ。
 えっと振り返ると、どこかから戻ってきたらしい日野が、背の高い緑の髪の男性を見上げて話をしている姿が目に入った。雑談でもしているらしい。彼女を呼び捨てにするのだから、かなりの親しい間柄に違いない。じろじろと観察してみると、スポーツマンといった容姿で、身体つきも頑丈そうだし、何より顔立ちが整っていて、美人というよりはハンサムだとか男性的といった単語が当てはまりそうな男だった。
 彼らから少し離れた廊下で立ち止まっていたせいか、火原の存在に気づいた普通科の友人たちがどうしたと声をかけてきた。

「誰かになんか用か?」
「あ、火原、バスケする?」

 火原の名が出たせいだろうか、日野がこちらに気付いて振り返った。隣の男も視線を寄越してくる。目が合ってしまった。本当は遠目に見ることができればよかったのだが、これではもう引き下がれそうにない。

「あー。えーっと、ちょっと、コンクールのことでさ」

 苦し紛れに言うと、友人たちは不思議そうに顔を見合わせた。

「コンクール? って、何」
「あ、あれじゃね、報道部の天羽さんが騒いでたやつ」
「ああ……日野さんのやつか」

 互いに話し始める友人たちからさりげなく離れつつ、火原は日野の前まで行った。日野は無表情で、形式的に軽く頭を下げた。

「こんにちは、火原先輩」
「こんにちは。ごめん急に、コンクールのことで、さ……」

 実際には話題などないので、どうしたものかと迷った挙句、コンクール参加の意思でも訊こうかと考えたが、隣に普通科の男子生徒がいるので少しためらった。もしかして、彼は日野の恋人だったりするのではないだろうか。以前は恋人などいないと言っていたはずだが。

「こちらは音楽科の火原先輩です」

 火原が会話に困っているのを察してか、日野が説明する。男子生徒は「ああ」と頷いた。

「コンクール参加者の、ですよね。楽器はトランペットでしたっけ」
「え、知ってるの?」

 問い返すと、男子生徒は親しみのある笑みを浮かべ、

「香穂子から聞きましたよ」

 ね、と日野に視線を合わせた。先ほどの友人たちの会話と彼の言葉から察すると、普通科の生徒には、音楽科で張り紙があったような形ではまだ知られていないようだ。

「じゃあ、君も知ってるんだ。香穂ちゃんが参加するってこと」

 香穂ちゃんという名で呼ぶことに、すでに日野から許可はもらっている。今、この場であだ名を使って、この男子生徒がどのような反応をするのか知りたかった。恋人だったりしたら、きっと他の男の呼びかけ方は気になるはずだ。
 しかし、男子生徒は予想に反してなんの反応もせず、こくりと頷いた。

「ええ。辞退するべきかって相談を受けてて」

 相談。
 聞いた火原の心に、もやもやしたものが沸き上がる。魔法のヴァイオリンについて、この男子生徒も知っているというのだろうか。てっきり日野は火原だけに打ち明けたと思っていたのに。日野の反応が気になり彼女を見ると、いつもの淡白な様子で二人の会話を聞いているだけだ。日野の心を読むのは諦め、果たして男子生徒はどこまで事実を知っているのだろうと、試しに火原は探ってみることにした。

「そうなんだ。音楽科のおれからしたら、ヴァイオリンが弾けるんだったら、ぜひ参加してほしいんだけどね」
「いや、本当にびっくりしましたよ。日野が楽器を弾けるなんて、一度も聞いたことがなかったもんですから」

 おや、と火原は眉を上げる。どうやら男子生徒は、日野のヴァイオリンの件がファータの魔法の効果であることを知らないらしい。それもそうかもしれない。そもそも妖精などという存在がこの世にいること自体、信じがたい話だし、仮に相手が親しい間柄だとしても、妖精が見えない人間に対してそう真面目に説明できることではない。頭がおかしくなったとしか思われないだろう。おそらく日野も適当に取り繕ったのだ。もしそうなら、二人の秘密は、まだ秘密のままなはず。
 それよりも気になるのは、男子生徒の日野への態度だった。つい先日、香穂ちゃんという呼びかけを火原は手に入れたばかりなのに、この男は、当たり前のように彼女を下の名前で呼んでいる。よほど仲がよいか幼馴染でもないかぎり、できることではないだろう。
 火原は腹の内を隠すように無邪気な笑みを浮かべていたが、先輩が沈黙したことを気にしてか、男子生徒は慌てたように軽く頭を下げた。

「あ、すみません。自己紹介が遅れました。俺は普通科二年の土浦です。香穂子とは違うクラスなんですがね」

 はきはきとした物言いは賢そうで、自信ありげだった。体格が大柄な方なので、火原は気圧される。さわやかだし、上下関係にもどうやら抵抗はなさそうで、どちらかというといい人そうだった。
 よろしくね、と手を差し出す。土浦は控えめに火原の手を取って握手した。

「よろしくお願いします」
「香穂ちゃんと仲いいの?」

 遮るように、ずばり問う。矢継ぎ早な相手に驚いたのか、土浦は目をしばたたかせ、ああ、まあ……と、今度は曖昧に言葉を濁した。

「一年のときに知り合って、それから、な」

 言いづらそうに日野に振っている。火原は土浦を見つめたまま、続けて訊いた。

「じゃあ、香穂ちゃんの彼氏?」

 あくまで明るく問うたつもりだったが、土浦は火原の言葉の中にある棘を察したらしい。一瞬、眉をひそめ、すぐにかぶりを振った。

「違いますよ」

 そのとき向こうから土浦の声を呼ぶ声が聞こえてきて、彼ははっとしたように顔を上げた。

「あ、やばい、部活の当番だった。すみません、火原先輩、これで失礼します。香穂子、またメールでもしてくれ」

 そう言い残し、急いだ様子で廊下の生徒たちの合間を縫って去っていった。