「和樹ぃ、彼女できた?」

 お決まりの文句を言いながら、屋上に来た笠原が購買のパンを火原のもとに投げ込む。フェンスに背中を預け、広い空を見ながら昼食を取るのはいつものことだ。今日は曇りがちだったが、雨は降らない天気予報で、屋上で昼食を取っている音楽科の生徒が、他に二組ほどいる。どちらも知り合いではなかったので、普段通り笠原と二人で食べることになった。

「お、カツサンド残ってるなんて珍しい。しかも二個」

 がさがさと袋を開けて、二つの包装と牛乳パックを出す。笠原も隣に座り、袋から握り飯を取り出した。

「なんかバイトさんが間違えて多く注文しちゃったんだって」
「カツサンド? なんだ、おれ買い占めるのに」
「俺そんなに早く並んでなかったけど、まだ二十個くらいあったぜ」

 後で買って放課後のおやつにしようかなあと真剣に呟く。よく食べるなお前……と細身な笠原は溜息をついた。
 笠原は携帯電話でメールを打ち込んでいて、しばらく二人で無言の時を過ごしていたが、見つめていた空を大きな鳥が横切っていったとき、ふと火原は口を開いた。

「ねえ。人を好きになるってどんな感じ?」
「えっ、ほんとに彼女できたの!?」

 飛び跳ねた笠原を半眼でじろりと見る。

「そんなこと言ってないだろ」
「なんだ、あーびっくりした。まじでできたのかと思った。
 え? 人を好きになる? そんなの人それぞれじゃね」

 びっくりさせんなよ……とでも言いたげに、だらしなくフェンスに背中を預け、携帯電話の操作を再開している。

「そんなん、あえて考えたことなんてない」
「そっか」
「あれ? もしかして好きな人ができた?」

 再び好奇心旺盛な声で訊いてくる笠原には目を向けず、空を眺めて牛乳を飲む。笠原は「誰、誰!?」と騒いでいたが、火原の反応がないままだったので飽きたのか、「まあ、どうせできないよな、お前には」と冷たい調子で呟き、再び携帯電話の打ち込みを始めたらしかった。
 火原はようやく空から視線を下ろし、二個目のカツサンドを食べながら、笠原に振り返った。

「おれ、もともとあんまり人を好きになんなかったんだなって思った」
「ん? あ?」
「こんだけ生きてて、今まで人を好きになることがなかったんだなって」

 笠原は携帯電話の手を止め、考え込むように視線を上に向けてから火原を見た。

「ってことは、今初めて人を好きになったって言いたいわけ?」
「別に、そういうわけじゃない……」

 火原は、日野を思い浮かべた。一番最初に脳裏によぎったのは、あの霧雨の中の横顔と、雨と白い風景ににじむ赤い髪。それから、森の広場の秘密の場所で、石に座って煙草を吸っている、どこか悲しげにも見える顔。その場所で、握手をしたときの日野の驚いた表情。土曜日、広場で火原を待っていた日野の姿。練習室の長椅子に腰かけている、小柄でほっそりとした身体と、こちらを不思議そうに見つめる大きな目。
 繰り返し走馬灯のようによみがえる風景は全て、日野のいる場面ばかり。この不思議な気持ちは一体なんだろう。それは、オーケストラ部の演奏で全員の息が合ったときや、スポーツ観戦で興奮したときに抱くような感動やときめきとはまったく異質なもので、もっと静かで、真っ直ぐで、けれど深くて、どこか恐怖さえ感じるような強い感情なのだ。

「ただ、人を好きになるって、どんな感じなのか知りたかっただけ」

 火原の呟きに、笠原はふうんと気のない返事をした。

「人を好きになるのに理由やきっかけはないと思うな。俺、運命を信じる派なんだよね」

 意外かもしれないけどさ……と笠原が照れ隠しのためか、ぶっきらぼうに付け足す。火原は真面目な顔つきでかぶりを振った。

「おれもだよ」

 火原には、あの夢かうつつか分からなくなるようにおぼろげな雨の日の出会いが、いつも過ごす毎日とは、世界の次元すら違ったのではないかと感じていた。
 俺も和樹のことロマンチストだなんて言えないってことか?と今気がついたかのように独り言を呟いている笠原を横目に、今日の放課後、日野の様子を見に行ってみようと火原は思った。