「もし人が来たら、おれが壁になって隠すから、すぐ火を消して」

 日野は依然青い顔をしていたが、かなり体調が悪いのだろう、言われた通りにヴァイオリンケースを地面に置き、おぼつかない手つきでポケットから煙草とライターを取り出した。手が震えていてライターの点火に手こずっていたので、渡してもらって火原が代わりにつけてやった。日野は礼の代わりに弱々しく微笑み、唇に挟むと煙草を吸った。何度か吸い、ふう、と息をつくと、みるみるうちに白い顔に色が戻ってきたので、火原は驚く。

「顔色、よくなったね」
「そうですか」

 自分でも分かっているような返事だった。ふうー、と長く煙を吐く。

「すみません」
「ううん。あまり長居はできないけど……」

 日野の煙草を持つ手を見つめていた火原は、先ほど彼女の手を勝手に取って引っ張ってしまったことを思い出した。緊急だったとは言え、他人の手を断りもせず握ってしまうなんて、失礼だったのではないだろうか。急に猛烈な恥ずかしさが生まれてきて、火原は顔を赤くしてうつむいた。

「ご、ごめん」
「え?」
「手、勝手に取っちゃって」

 手のひらの中に、彼女の華奢な指の感触が残っている。男の手とまるで違い、柔らかくて、心細いほど指も細くて、どんな力加減で握ったらいいのかさえ分からないような、女の人の手。

「い、痛かったとか」
「全然。どうして謝るんですか?」

 喫煙のおかげだろうか、いつもの調子が戻ってきたらしい。少し強気な、はっきりとものを言う性格が分かる口調で、彼女は苦笑しながら返した。

「火原先輩は、私のためにここに来てくれたんだから。感謝しています」

 顔を上げると、長い睫毛を伏せ、遠い目をして煙草をふかしている少女の姿がある。それは、あの雨の日と同じで美しかった。今日の天気はとてもいいはずなのに、急速に、目の前に白い霧がかかるような、白昼夢の中に入り込むような、今まで感じたこともない不思議な感覚に陥る。まるで魔法にかかったかのようだ。魔法のヴァイオリンがあるなら、日野にも魔法の力があってもおかしくないだろう。麻薬のような、甘美で虚ろな世界にいざなう魔法。自分は、魔法使いに囚われてしまった、ごく普通の人間で――
 そんなことを考えている自分自身に、火原は小さく笑った。

「きみにとって、煙草って大事なんだね」

 思ったことを口にする。すると日野は火原を目だけで見上げ、意味深長に沈黙した。表情は真剣で、決していい感情がこもってはいなさそうだ。何かまずいことを言ってしまったのではないかと不安になる。

「あ、ええと……おれは、つまり、きみが煙草を吸ってることに反対しないってことだよ」

 日野は何も言わず、短くなった煙草を携帯灰皿に捨て、小さく息をついてから、足下に置いてあったヴァイオリンケースを取り上げた。

「ありがとうございました。少し楽になりました」

 口調は、いつもと変わらず淡々としていて、口元には、礼の代わりか微笑が宿っている。火原にここまで連れてきてもらったこともあるからだろう、怒ってはいなさそうだが、彼女のどこに地雷があるのか分からないので、火原はどぎまぎしながら頷いた。

「う、ううん。よかった。あ、もしよければ家まで送ろうか?」

 さすがに日野も「そこまでは……」と遠慮した。火原は体調が芳しくない日野の帰路に何かがあると心配なので、そう言っただけなのだが、家までついてくるとなると別の意味の方にも繋がってしまうのだろう。目撃されたら、それはそれで厄介だ。
 相手との距離の取り方が分からず混乱している男の心境を悟ったのか、日野は、とりあえずこの場所から出ましょうと言って、今度は火原を先導する形になって通りの方に出た。

「火原先輩に、いろいろよくしてもらって、少し驚きました」

 通りに出て火原を振り返ると、日野は微笑んだ。無表情でいることが多い人間が笑うと、こんなにも可愛らしく感じるものかと感心するほど、火原は彼女の笑顔が好きだった。

「ううん。おれのほうこそ楽しかった。無理言って付き合わせちゃってごめんね。ちょっと強引だったなって反省してる」
「いえ。お心遣い嬉しかったです」
「あ、でも」

 日野を真面目な顔つきで真っ直ぐに見て、

「もし参加してくれるなら、きみのこと、おれが守るから」

 そう告げる。これで何度目だろうか。この言葉は、日野に、できればコンクールに参加してほしいという気持ちから出るものだった。もし参加をしないのであれば、彼女の性格からして、火原と日野の関係はここで終わってしまう気がするからだ。彼女が参加すれば、日野に会いたいと思う気持ちを参加者としての接触に置き換えられるし、たとえ(ヴァイオリンの秘密を共有する者として)現場に二人きりであっても、それほど周囲から疑問視はされないだろう。それに、この、彼女を守りたいという気持ちは、もはやコンクールのためだけではない気がしていた。
 日野は困ったように瞬きし、はあ……と片手で自分の首元を撫でつけた。

「火原先輩に付き合っていただいて、お昼までごちそうになって、とても嬉しかったですが……今日は少し疲れたので、もう帰ります」
「うん」

 守りたいという言葉に対する直接の反応が聞けず残念だが、考えてみれば当たり前の反応だ。他人に対してそう利用できるような台詞ではないし、恋人の関係でもないのだから、言われた方は困ってしまうだろう。
 日野がぺこりと頭を下げ、踵を返そうとする。彼女が数歩進んだとき、火原は声を上げた。

「日野さん!」

 はい?と日野が不思議そうに振り返る。火原は呼び止めた自分自身にひるんだが、気を取り直して駆け寄ると、なんだろうという顔をしている彼女を見下ろして、心のままに告げた。

「きみのこと、香穂ちゃんって呼んでいい?」

 この願望はある種の感情から起こったものだったが、自覚するのが怖くて、火原は深く考えないようにしていた。