「さっき言ったパスタのお店でいい?」
「はい。でも、学院の人に見つかったら面倒そうですけど、いいんですか?」
「かまわないよ」

 練習室のドアを開け、廊下を覗く。歩いている人間はいなかったので、今だと日野を廊下に導き、鍵を急いで閉める。

「おれたちには理由があるじゃん。コンクール参加者同士っていうさ」
「私は、まだ参加を決めたわけじゃ」
「それでも、言い逃れの理由にはなるよ」

 廊下を進んで、先ほどの裏口から外に出る。念のため生徒たちの姿がないか警戒しつつ、音楽科棟のメインの入り口付近まで戻ったとき、楽器の練習をしに来たらしい音楽科の制服姿の女子二人組が、火原と日野を見つけて目を丸くした。「えっ、あの人?」などと日野を差す言葉も聞こえてくる。日野を引き連れ、何食わぬ顔をしてすれ違おうとしたとき、女子の片方が火原を呼び止めた。

「あの、火原先輩」

 ああ面倒くさいなあという気持ちが湧いたが、火原はいつもの明るい笑みを浮かべて振り返った――日野を背後に隠すようにしつつ。

「うん。何?」
「コンクール出場おめでとうございます」

 もう一人の女子が言う。どちらも知らない顔だった。火原を見上げて、目をきらきらさせている。二人とも手に持っているハードケースがヴァイオリンのものなので、少し嫌な予感がした。

「応援してます。頑張ってください!」
「ああ、ありがとう」
「ところで、後ろの人って日野さんですよね」

 すかさず、最初に呼び止めた方の女子が訊く。日野が口を開く前に、火原が応えた。

「そうだよ」

 女子二人は日野を覗き込もうとするが、火原はその場を動かなかった。壁になっていると気付いたらしい二人が、じろりとした目つきで見上げてくる。

「一セレの練習だったんですか?」
「うん、そうだよ」
「日野さんって、すごくないですか。普通科の人ですよね。すごいねって言ってたんですよ。普通科からコンクールに出られるなんて」
「すごくヴァイオリンがお上手だってことですよね」

 聴いてみたいよねえ、とにこにこ笑い合いながら言う。二人の口調が明らかに嫌味だったので、火原も強気に出ることにした。

「ごめんね、もう行っていいかな。おれたち、すごく急いでるんだ」

 にっこり笑って言うと、いつにない火原の牽制に驚いた二人は、え、はい……と戸惑った声を出した。ごめんねと手を振りながら、日野を隣に並ばせて校門の方へ歩き出す。彼女たちが以降どのような反応をしたのかなど興味がなかったので振り返らなかった。
 状況を考慮し、後ろではなく隣を歩く日野が、火原先輩……と呆れたような声を出した。

「二人とも、びっくりしてましたよ」
「うん? そうかな。いいじゃん。ああやってやり過ごすしかなかったし」
「火原先輩まで他の人を敵に回すようなことはしないでくださいね」
「だって腹が立ったんだもん」

 不機嫌に、はっきりと火原は言った。隣の日野は、火原の語調に困惑したようだった。

「でも、あれじゃあ……」
「おれさ、ああいう子たちって好きじゃないんだ。上手い人がいると気に食わないって顔をする人。恨みとか妬みとか抱いても、自分にとっても相手にとっても一つもいいことなんてないじゃん。自分より上手い人がいるなら、その人のことを尊敬して、どうやったら同じように弾けるんだろうって考えて努力した方がずっといいよ」
「火原先輩は、自分より上手な人に嫉妬しないんですか?」

 そもそも音楽の世界がどのような状況なのかは分からないけれど……と付け足して問うてくる。校門を出て、右手にある駅前通りにつながる道に足を踏み入れつつ、火原は前を向いたまま言った。

「しないよ。無駄だって分かってるから。そんな気持ちを抱いても、楽しくないし」

 すると、日野は感心したような口ぶりで、

「それって、すごいですね。嫉妬なんて、普通は自然に心の中に生まれてしまいそうなのに」

 などと言うので、ならば自分は嫉妬心を意図的に抑えつけているのだろうかと疑問に思い、そもそもそんな器用な人間ではないような気がすると、少し自信がなくなってしまった。

「分かんない……。もしかしたら、人が嫉妬と思うものを嫉妬と思ってないとか? ごめん、難しいことになると、おれ分かんないんだよね」

 もともと思考回路が単純で語彙が少ないという、友人たちの火原への評価もある。思ったことを素直に口に出してしまうのは、正直者と愚か者が表裏一体になっているようなものだと柚木に釘を刺されたこともあった。
 てっきり日野は火原の行動を批判をしたいのかと思ったが、そういうわけでもないらしく、先ほどの感心した声音のまま、へえ、と頷いた。

「いいですね。嫉妬を嫉妬としないんだ。誰かを尊敬して原動力にできるって、すごいことだと思います」

 褒められる。意外な評価に驚いて、見下ろすと、そこには薄く微笑――それは、あの、どこか憂えている不思議な微笑――をしながら、太陽の光が眩しそうに目を細めている日野の姿があった。