日野が長らくドアの向こうを見つめているので、誰か覗いているのだろうかと思い、火原もそちらに目をやった。特に、人の姿があるわけでもない。

「日野さん? 大丈夫?」

 まるで告白めいた発言が気に障ったのだろうか。心配になって顔をのぞき込む。日野はゆるゆると視線を火原に移し、いえ……と小さな声で応えた。どこか暗い表情をしていて不安になる。

「考えていました」
「考えてた?」
「火原先輩を巻き込みたくないって。魔法のヴァイオリンのことも言わなければよかった」

 いつもの淡白な口調ではなく、声の響きが悲しげで、火原は申し訳ない気持ちになる。日野をこんなふうに悩ませてしまったのは、きっと自分なのだ。ヴァイオリンのことを言わなければよかったという言葉が無性に悲しくて、つらくて、思わずその場にしゃがみ込み、日野を見上げた。

「日野さんは悪くない。先に接触したのは、おれなんだから」
「……」
「自分にとって運命だと思うからなんて、図々しいよね。きみの立場になって考えてないんだもの。きみの気持ちを無視した、おれが強引すぎたんだ。ごめんね、日野さん。それでも、おれ」

 この、自分でも驚くほど真っ直ぐな想いは何なのだろう。

「おれ、もっときみと話したい。きみに、ヴァイオリンのこと、まだ諦めてほしくない。
 何かがあったら、おれがきみを守るから」

 三度目のこの言葉を声に出したときにはもう、火原に照れはなくなっていた。本当に、ただそうしたいから告げているのだった。
 日野は火原を見つめて神妙な顔をしていたが、そのうちぽつりと言った。

「……煙草を吸いたい」

 火原は頷いて立ち上がり、今日の練習はもう止めにしようと提案した。これ以上、二人きりの部屋で日野を悩ませるのは可哀想だった。携帯電話をポケットから取り出して時刻を見ると、正午を回っていた。

「トランペットは、また今度聴かせるよ。ところで、お腹空いたね。日野さんはどうする」
「帰ります」
「そう。でも、もしよければお昼、一緒に食べない?」

 日野が、はあ?という顔つきになる。火原はピアノの上に置いてあった楽譜をクリアファイルに入れ、返した。

「無理に付き合わせたお礼にさ」
「お昼って、どこで?」

 断じて帰宅したいというわけでもなさそうだ。火原はしてやったりと微笑し、どうしようかなあと考える仕草を取った。

「学院の中だと目立つから、駅前通りとか? 人ごみに紛れちゃえば分かんないでしょ。日野さん、パスタ好き? 友達に教えてもらったお店があってさ、誰かを誘いたいって前から思ってたんだよね」
「火原先輩って」

 トートバッグに楽譜をしまいつつ、

「けっこう強引なんですね」

 などと日野が言うものだから、火原は肩をすくめてみせた。

「そうかなあ?」
「なんだかコンクールや楽器のことを考えるのが疲れてきました」
「そうだろうね。あ、そういえば、煙草ってどこで吸うの」

 そうですね……と日野は考える目つきをし、

「そこの庭は、人が来なさそうでしょうか」

 と、閉じている窓の方を指差して尋ねてくる。火原はその指の先を一瞥して、うーんと唸った。

「分かんない。おれ、今までここの練習室を利用したことがなくてさ。でも、向こうは雑草だらけでちょっと危ないよ。蚊に刺されたりしても嫌じゃない?」
「それも、そうですね……」
「あの広場のいつものところは? 日野さん、休日だと煙草はどこで吸うの?」
「休日は、ほとんど吸いません。家にいることが多いし」
「うん? ってことは、家族は喫煙してることを知らないの?」

 日野はあっさり頷いた。

「ばれたら取り上げられるでしょうね」

 学院での隠れた喫煙といい、なかなか彼女はリスクの高いことをしている。先ほど「強引」と言われたが、日野も人のことは言えないのではないだろうか。言葉にはできなかったが。
 日野はヴァイオリンケースとトートバッグを持って立ち上がり、火原に向き直った。

「いいです。煙草は我慢します」
「そう。大丈夫?」
「ええ。お昼、どうしましょうか」

 日野が行く気になってくれていることが嬉しくて、火原は笑顔になり、腰をかがめて日野を覗き込んだ。こちらの顔が緩んでいるからだろうか、彼女が大きな目を不思議そうに瞬かせているのが可愛らしかった。