直後、火原の耳に聴こえてきたのは、とても素人とは思えないヴァイオリンの音色だった。正しい構えをとり、火原の鼻歌に合わせて弓を動かすさまは、オーケストラ部で見ているヴァイオリニストたちと何ら変わりない。
 すごい……と魔法の力とやらに感動しながら日野の姿を見つめていると、急に音が止んだ。弓を下ろしてしまったのだ。

「どうしたの?」

 問いには答えず、日野は何もない壁を半ば睨むように見据え、低い声で呟いた。

「詐欺めいてる。こんなの……」
「え」
「魔法か何かは知らないけれど、もしこれを利用してコンクールに参加したら、詐欺どころか音楽をやっている人たちに失礼です」

 身体が勝手に動くなんて。そう気味悪そうに眉をひそめ、日野はヴァイオリンをケースに仕舞い始めた。火原は楽譜をピアノの上に置き、慌てて止めに駆け寄る。

「ま、待ってよ。ねえ、リリとしてはさ、そのヴァイオリンを利用してでも、きみにコンクールに参加して欲しいわけで」
「音楽の妖精だからって見えない人たちを騙すような真似をしていいんですか」
「いや、まあ、そうだけど、ある意味、コンクールってリリが主催のものだから、主催者がいいっていうならいいんじゃないのかな」
「金澤先生も同じようなことを言ってましたけど、火原先輩だって嫌でしょう、何も知らない素人が、魔法の力を利用して同じステージで演奏するなんて」

 帰ることはせず、ひとまず長椅子に座ってくれた日野にホッとしながら、火原は、彼女の言葉にどう応えたものかと悩み、首の後ろに手を当てながら目を右往左往させた。

「おれは、その……。
 きみに、音楽を楽しんでほしいだけなんだ。そりゃ、確かに魔法の力でみんなを騙すようなことはよくないかもしれないけれど、もしかしたら、魔法のおかげで、きみが音楽を楽しんだり、普通科の人たちが音楽に興味を持つきっかけになるかもしれないじゃない?」
「もし真相がばれたら、私は悪者になるんですよ。きっと学院にいられなくなる」

 日野の言う通りだ。真実を知る金澤はかばってくれるかもしれないが、学院のほとんどの人間が妖精の存在など知らないはずで、特に、教師陣と音楽科の生徒たちは、もともと音楽という孤高の道を歩んでいることもありプライドが高い者ばかりだし、妖精や魔法の力というものを信じるにせよ信じないにせよ、詐欺まがいの状態でステージに上がったとしたら、下手すると退学という事態に発展する可能性もある。今、火原は、音楽の普及活動のために、日野に犠牲になれと言っているようなものなのだ。
 もし日野が退学に追い込まれるような事態になったら、火原は嫌だと思った。それは真実を知っている自分も巻き込まれるからではなく、日野がこの学院からいなくなってしまうということが単純に悲しいからだった。同じ学校や塾にでもいない限り、高校生同士が普段から接触を図ることは難しい。ましてや二人は普通科と音楽科で歩んでいる道さえ違うのだから。
 もっと話したい、もっと日野のことを知りたい。火原は、出会って間もない少女に対し、そう考える自分に違和感を抱いてはいたものの、今は訝しんでいなかった。だから、おそらく告げたのだった。

「おれが、きみを守るよ」

 とんでもない台詞だと頭の隅で理解していたが、躊躇はなかった。今、このとき遣うべき言葉だと思った。 

「もしばれても、おれがきみを守る」

 日野は唖然とした表情で、そばに佇む火原を見上げた。

「……どうして? なんで……そこまで私のことを気にかけるんですか。こんなふうに練習に付き合ってくれたりして。私、過去に火原先輩と何かありましたか?」
「ないよ」

 火原自身も、どうしてこんなに日野のことが気になるのか、よく分からなかった。けれど、繰り返し頭の中に浮かぶのだ、あの霧雨の日、ベンチに座って煙草をくゆらす、虚ろな少女の姿が。まるで灰色の濡れたキャンバスに赤と白の絵の具を垂らしたかのようにおぼろげで滲んだ景色なのに、決して綺麗な色だとは言えないのに、彼女の横顔がそこに重なると、強烈に心が惹きつけられてしまう。この感情は人生の中で簡単に手に入るものではなく、大切に扱い、吟味しなければならないもののような気がして、火原は、真剣に言葉を選んだ。

「ない。けど、おれ、たぶん、きっと、これを運命だと思ってるんだ」

 運命という言葉は、ドラマや漫画の中だけで利用される、本当は曖昧で、言い訳のような単語かと思っていた。けれど、今、自分の心が彼女に執着を覚えている事実は、そうとしか表現のしようがなかった。

「きみと、あの雨の日に出会ったことも」

 出会わなければ、今、日野とここでこうしている未来はなかったのだろう。
 日野は困惑を露わにした目で火原を見つめていたが、そのうち視線を外すと、どこか落ち込んだふうな顔つきで練習室から廊下へと続くガラス戸を見た。それからしばらく黙り込んでしまったので、火原は彼女を見下ろしながら、これまで自分の告げた言葉を頭で反芻したりして、おれはなんと大胆な発言をしてしまったんだろうと急に羞恥心が湧き、顔が熱くなった。まさかこんな展開になるとは予想もしていなかったのだ。けれど、日野に対する言葉の数々は、どれも嘘偽りのない自分の本物の気持ちのような気がしていて、不思議だった。会ったばかりの人間に対して、こんなに真摯な想いを抱き、それを伝えられるものなのだろうか。運命という言葉を軽率に遣ってしまったかもしれないと少し不安になるが、きっと間違いではないと、そう感じるのだった。