ところでヴァイオリンの魔法はどのようにしたら発動するのかと訊いてみたが、リリは日野に楽器と楽譜を手渡して以来、彼女の前に姿を現さないらしい。

「え、それってひどくない? アドバイスもないの?」
「もしかしたら私が演奏を拒んでいて、見える力をなくしたのかもしれません」

 落胆というよりは見えなくなった方がいいと言っているような口調だったが、その点については分からないふりをして火原は言った。

「おれもリリにはしばらく会ってないから、たぶんそれは関係ないよ。そのうち向こうに用事ができたら見せてくれるんじゃないかな。んで、今の状況だと、魔法の使い方がよく分からないってことだから、いろいろ試してみるしかないよね」

 楽譜を見ながら曲を鼻歌で歌ってみる。譜面は分からなくてもメロディが分かるか日野に尋ねると、彼女は頷いた。

「ええ。電話の保留音なんかにも使われてますよね」
「ああ、そういえばそうだね」

 思いつく場所がそれかと少し笑う。会話しているときに立ったままだとつらいので、ピアノの椅子に腰かけて日野の方を向いた。細身の少女がちょこんと長椅子に座っている姿は、普通科の制服を着ている人間が練習室にいるからなのだろうか、不思議と新鮮味を覚える。こちらを見つめる大きな目は可愛らしかった。よくよく見てみれば、日野はけっこう美人なのだ。顔が小さく、ほっそりとしていて、目鼻立ちも整っているし、何より身体つきがすらりとしているので全身のバランスがいい。あまり表情がないところも、実は美人に感じさせる一要素なのかもしれない。
 こんなきれいな女の子なのに、恋人がいないって不思議だな……と考えていると、あまりに見つめすぎたのか、日野が戸惑った声を出した。

「あの……私の顔、何かついてます?」
「え? あっ、ああ、別になんでもない。ごめん。日野さんがそこにいてくれるのが、なんか嬉しくてさ」

 わたわたと両手を振ると、持っていた楽譜が数枚床に落ちてしまった。日野が拾おうとするのを見て、火原も慌てて床にしゃがみ込む。

「ご、ごめんね」

 見下ろすと、紙を撫でる日野の細い指先が見えて、火原はどきりとした。赤い髪が間近にあり、前髪から覗く睫毛はとても長くて女性らしい。あの雨の日にベンチに座る彼女を見下ろしていたときの風景と重なり、目を細めた。彼女は本当に細くて、制服の襟元から覗く鎖骨はくっきりとしており、肩など小さすぎて火原の両腕に簡単に収まってしまいそうだ。強い力で抱きしめたりしたら折れてしまうのではないだろうか。
 日野はスモーカーのようなので、てっきり身体から煙草の匂いがしてくるかと思っていたのが、そんなことはまったくなく、むしろシャンプーの香りが漂ってきて、女の子はいい香りがするって本当なんだな……とうっとりしてしまう。

「火原先輩?」

 呼びかけられてハッとする。日野がこちらに楽譜を差し出しているのに気付き、火原はあたふたしながら受け取った。

「あ、ありがとう。ごめん、拾わせちゃって」
「いえ」
「ねえ、日野さんはさ、煙草ってどのくらいの頻度で吸うの?」

 匂いますか?と長椅子に戻った日野に訊かれ、そういうつもりで言ったのではないと首を横に振る。

「むしろ匂わないから、頻繁には吸わないのかなと思って」
「日によります。でも、一般的な人よりは吸わないかもしれません」

 一日一本で済むときもあるという。喫煙者はもっと煙草を消費しているイメージがあったので、吸う頻度が控えめである事実に、身体を壊すほどではないのだと安心した。

「おれの家族は吸わないからさ。よく分かんないんだよね」

 火原も言いながらピアノの方に戻り、そろそろ部屋が涼しくなってきたので、窓を閉める。

「で、日野さん、ヴァイオリンの構えは分かる?」
「構え?」
「弾くときの姿勢」
「分かりません」
「そうだよね。おれも分からないんだ」

 再びピアノの椅子に座り、困ったなあと楽譜を眺めながら眉をハの字にしていると、おもむろに日野はヴァイオリンと弓を手にして立ち上がった。火原は、あまり行動の読めない日野が次に何をするのか気になって、興味深げに眺めてしまう。
 こんな感じかな……と日野が楽器を持ち上げた瞬間、彼女の両手が不自然に、まるで操られるように動いた。えっと思っている間に、火原が音楽科でよく目にしている、おそらく基本形と思われるヴァイオリンの構えが彼女の身体で完成した。
 妙な動きを目撃した火原も驚いたが、日野はもっと目を丸くしていた。

「い、今の、なに?」

 火原が声を上げると、日野は「よく分からない……」と目をしばたたかせながら自分の左肩に来たヴァイオリンを見やった。

「手が勝手に動きました」
「勝手に? ってことは、それが魔法ってことなのかな?」

 いいかげんリリに姿を現してほしいのだが、妖精がどのように行動するかなど人間に分かるはずもない。真相は自分たちで探っていくしかないので、試しに楽器に弓を当ててみてと頼む。日野は戸惑った様子のまま(この戸惑った様子がこれまでの彼女から想像つかなくて、火原はなんだかおかしかった)、右手の弓をそっと弦に当てた。

「何か思い浮かべて」
「何かって?」
「曲。さっきのアヴェ・マリア」

 一緒に歌ってあげるからと、先ほどと同じように、広く知られている部分を鼻歌で歌う。日野は火原を困惑気味に一瞥してから、曲のきりのいいところで、右手をおそるおそる動かし始めた。