携帯電話のメールアドレスを伝え合っていたので、土曜日、朝食を食べ終わった火原は、待ち合わせ場所と時間を「森の広場学園側入口の石の椅子、午前十時」として日野に送信した。返事はまもなく来て、文面は「ご連絡ありがとうございます。了解しました。」の二文だけ。液晶画面を見ながら、火原は少し笑ってしまった。友人からこんな淡白なメールが来たら「おれ、何かしたかな」と不安になるところだが、日野については返事が来たことだけで安心してしまうのだ。
 こんな気持ちになるのは初めてだなあとのんきに考えながら、トランペットのハードケースを片手に待ち合わせの場所へ向かう。今日は晴れで、夏の気配が近づいているせいか蒸し暑かった。練習場所はあくまで学院内なので、まだ衣替えの時期ではないのだが、夏の制服を着ている。とは言いつつも、火原はもともとワイシャツが好きではなく、オーケストラ部の練習などで休日に学院に来る際は、私服のティーシャツを着ることが恒例だった。今日も、黒地に白い文字が入ったティーシャツだ。
 森の広場は一般人も入れるので、休日になると家族連れなどの姿が多くなる。入口にある石の椅子にも何人かいて、その中に制服姿の日野の姿が見えたとき、火原は自分でも驚くほど安心した。

「日野さん。おはよ」

 言いながら近寄ると、日野は振り返り、ゆっくりと立ち上がった。手にはヴァイオリンケース、肩には楽譜の入っているらしいオレンジと白のストライプのトートバッグが下がっていて、火原に向き直ると控えめにお辞儀をした。

「おはようございます」
「なんか嬉しい。きみが来てくれて」

 思わず笑顔になり、素直にそう言うと、日野は困ったように微笑した。

「そうですか?」
「うん。なんでだろ。不思議だね」

 早速行こうかと学院の方向へ歩き始める。遠慮があるのか抵抗なのかは分からないが、日野は火原の少し後ろをついてきている。隣を歩かれるのは嫌かもしれないので、火原はそのまま前を向いて話しかけた。

「日野さん、家はどこ?」
「学院から歩いて二十分くらいの場所です」

 普通に答えてくれたことに小さな嬉しさを覚えつつ、

「そっか。おれは電車通学で、徒歩含めると一時間くらい。実際は朝連するから早目に登校してるんだけどね。徒歩ってうらやましいよ、時間に左右されないし、電車は事故とかで停まっちゃったりするじゃん」

 遅刻しそうになっても徒歩通学なら走ればどうにかなるもんなあという言葉に、日野がくすくすと笑ってくれたのが嬉しかった。
 音楽科棟に入り、火原は昨日予約しておいた練習室の鍵を取りに職員室に向かった。生徒の対応のために、休日も当番制で教師が数人常勤している。教師たちは火原を見るなり「一セレのための練習か、頑張れ」と笑顔で応援してくれたが、実際は目的が少し違うので後ろめたさを感じてしまう。そもそも、練習室を借りる際の名簿にも、日野のことを考え、彼女の氏名は記入していなかった。練習室に二人でいることがばれたら色々な意味で厄介なので、念のため、人の通りかかる可能性の少ない一階の奥の部屋を借りてある。
 練習室が並ぶ廊下に向かうための入り口はいくつかあり、そのうちの一つは裏口で、特定の練習室を予約しない限りほとんど利用されない。周りに木が茂っていて、誰かに目撃されにくいという利点もあり、鍵を取りに行くあいだ日野をそこで待たせていた。鍵を指先に引っかけ迎えに行くと、日野は棟の壁に寄りかかりながら大人しくしていた。
 日野を連れて校舎内を導き、二人で練習室の鍵を開け、中に入る。誰かの演奏は聞こえてくるものの、ここに来るまでの他の生徒は見当たらなかったので、意外とすんなり目的地に着いた。
 日野は中に入るなり、物珍しそうに部屋を見回した。

「けっこう広いんですね」
「そうだね。ピアノも置かなくちゃいけないし、コントラバスみたいな大きな楽器も入るから」

 室温が少し高かったので、演奏を始めるまでの間と決めて窓を開ける。外は庭のようになっているが、あまり手入れされていないためか雑草がかなり茂っていた。火原は今までこの練習室を利用したことがなかったので、人が来にくい状況が判明し、もしまた日野と練習する機会ができたらこの部屋の予約を取ろうと心に決めた。

「楽譜って、なんの楽譜を持ってきてるの?」

 壁沿いにあるビロードの長椅子に荷物を置いている日野に問う。日野は、トートバッグからクリアファイルに入った紙を取り出し、火原に差し出した。

「アヴェ・マリアだそうです」
「ああ、有名だよね」

 受け取り、ファイルから紙を抜き取って目を通す。譜面に違和感などは感じないので、リリは玄人同様の楽器を彼女に手渡したようだ。記号も分からないと言っている人間に対して酷なことである。

「曲自体は分かるだろうから、演奏しやすいとは思うけど、楽器を触ったことのない人間が初見で弾ける譜面じゃないよね」

 日野は長椅子に座り、今度はヴァイオリンケースを膝にのせて中身を取り出した。火原はヴァイオリンに直接関わったことがないのでよく分からないが、通常、音楽科の生徒が使用しているものと何ら変わらないもののように見える。
 近づき、見せてと手を差し伸べて頼むと、日野は素直に渡してくれた。

「ふーん。何の変哲もない、って感じだね。魔法がかかってるなんて不思議だな」

 いろんな方向から観察してみるが、魔法を連想させるようなしるしなど何一つない。日野の話を聞いているときは、まるで魔法のように光っているヴァイオリンを思い浮かべたりしていたので、少し残念だった。
 日野に楽器を返すと、彼女は受け取ってそれを膝の上に置き、困ったような溜息をついた。

「今更申し訳ないんですけど、正直、そんなにやる気がないんです。楽しいって思えるのかも微妙で」
「今はまだ仕方ないよ。素人なんだしさ。でも、そういう気持ちでいると、楽しいものも本当に楽しくなくなっちゃうかもしれないから、今日だけはちょっとだけ前向きでいて?」

 顔をのぞき込みながら言う。日野は火原を無表情で見つめ、そのうち「はい」と小さく頷いた。