「練習って、火原先輩はいつもどこでやるんですか?」

 日野が訊いてきたので、もしや気持ちが傾いてきたのかと期待した火原は、それでもやはり喜びの感情は抑え込んで説明した。

「だいたい外かな。トランペットの音ってすごく響くから家では練習できないし、練習室以外では音楽室とか、外だと屋上やこの広場で、休みの日には他の公園や駅前通りに行ったりもするよ。人の前で演奏することって、緊張に慣れたり度胸をつけるためにも必要なことだから」

 日野は無表情のまま地面を見つめ、口を閉じた。その顔に、今までになかった陰鬱さが滲んでいるような気がして、何かまずいことを言ってしまったのだろうかと火原は少し焦る。

「あ、ごめん。嫌ならいいんだ」

 出会って間もないのに、相手に踏み込みすぎただろうか。火原は、人見知りせず何事にも正直なところが災いして、ときどき「もう少し考えてから行動や発言をしろ」と柚木や友人たちに咎められることがあった。今回も考えなしでやってしまったのだろうかと落ち込んでいると、日野がぽつりと呟いた。

「私、人混みが好きじゃないから」

 外よりも室内の方が集中できるということらしい。試しに練習をしてみようという意識を持ってくれたことよりも、日野が自分自身のことを語ってくれたことが無性に嬉しくて、ならばと火原は提案した。

「じゃあさ、明日、練習室で二人で演奏しようよ。練習室は個室になってるから、すごく集中できるよ。予約は、おれが取っとくし」
「火原先輩。私を気遣ってくれなくて大丈夫ですよ」

 薄く苦笑し、日野はとんとんと指を動かして煙草の灰を地面に落とした。

「コンクールなんて私にとっては大したことじゃないけど、あなたたち音楽科の人たちにとっては大事なイベントなんでしょう。私みたく関心のない人間が参加するのはお門違いです。リリを説得するなりなんなりして、ヴァイオリンも返却して、本当にコンクールに出たい人と入れ替わるべき」
「日野さん、リリはさ」

 火原は遮り、真剣な眼差しを日野に向けた。

「音楽を楽しんでほしいから日野さんの前に現れて、その魔法のヴァイオリンを渡したんだと思うんだよね。初心者でもできるように、この学院の普通科の人たちも音楽を楽しめるようにって。そりゃ、日野さんからすれば、とばっちりみたいな感じかもしれないけど、せっかく機会を与えられたのに、何もしないまま終わらせるのは、正直すごくもったいないよ」
「……」
「ごめん、ほとんどきみと話したことないのに、図々しく色々言っちゃって。けど、音楽は本当に楽しいものだってこと、きみに伝えたくて。おれはトランペットを吹いてると元気が出てくるし、他の人の演奏を聴いていても、感動したり、楽しくなったりして、音楽って、それこそ本当に魔法みたいだと思うんだ。日野さんはまだ興味ないかもしれないけど、いつか何かのきっかけになるかもしれないし、何よりおれは、コンクールのことで、きみとまた知り合えてよかったって思ってるんだ」

 はあ……と日野が少し困ったように相槌を打つのを聞き、何か変なことを言っただろうかと自分の言葉を頭で反芻して、なかなか大胆なことを口にしたことに気付いた火原は思わず顔を赤くした。

「あっ……ご、ごめん。深い意味じゃなくって……。えーと、その、おれ、普通科の人ともっと仲良くなれたらいいなっていつも思ってるから、きみと一緒に音楽を楽しめるかもしれないのがすごく嬉しいんだ。もちろん煙草のことはびっくりしたけど、だからどうしようっていう気はおれにはないし、この場所のことだって誰にも言わないよ。せっかく知り合えたんだから、日野さんがもっと音楽のことを知ってくれたらいいなって感じてるだけで……ごめん、おれなに言ってるか分からないよね」
「いえ」

 くすりと笑われる。火原は恥ずかしくなって首の後ろを掻きつつ、うつむいた。

「ええと……その。だから、きみと一緒に練習できたらなって思って……」
「でも、明日は土曜日ですし」

 そういえばそうだった。日野の言い分としては、火原が第一セレクションの練習をするのであれば無理して付き合ってほしくないし、自分の演奏に集中して欲しいということだった。
 火原は、日野と接触する機会を逃すまいという気持ちもあって、慌ててかぶりを振った。

「全然平気、大丈夫だよ。おれのことは気にしないで。朝から晩まで練習するわけじゃないんだしさ。練習室は休日でも入れるし、校舎も平日より人が少ないから、自分の音に集中できるよ」
「……」
「ね、日野さん。やってみようよ。それで、やっぱり無理だと思ったなら、そのときはリリにヴァイオリンを返しちゃえばいいんだ」

 日野は煙草を指に挟んだまま考え込むように地面を見つめ、それからゆっくりと火原を見た。

「火原先輩は大丈夫なんですか?」
「えっ、何が?」
「だって、いくらセレクションのためとはいえ、練習室で二人で、しかも普通科の人間といるなんて、音楽科の人たちの間で噂になってくださいって言ってるようなものでしょう」
「あっ? え、ああ、そ、そうだよね、考えてみれば……」

 普通科の人間ほど音楽科の人間は個室で練習することに対して違和感は抱かないだろうが、日野の言う通り、今まで名前も知られていなかった普通科の生徒がコンクールに参加するということだけでも大注目されるのに、そのうえ音楽科の火原と二人きりで密室にいたら、下手すると学院全体のゴシップになりかねない。火原も人懐こい性格のせいで大勢の知り合いがいるし、あれこれ詮索されることは目に見えている。
 一緒に練習してみようと提案したのはいいが、今回も考えなしだったことに気付かされ、火原はつくづく自分が嫌になったが、ならばこの話はなかったことにしようとは、どうしても言い出せなかった。しかし、それ以前に、日野にも休日に二人きりで会うことに対して問題はないのか訊く必要がある。

「あ、あのさ、日野さんは……その、ええと。予定は平気? 土日だし、誰かと約束があったりする?」
「別にないですよ」

 あっさり日野は答えた。煙草の二本目を取り出して火をつけている。

「私、休みの日は家で過ごすことが多いので」
「あ、そうなんだ」

 火原としては、恋人がいるのか、その人物と会う予定などはないのかを尋ねたかったのだが、さすがにそこまで踏み込むのは気が引けた。すると、日野は相手の心を読んだかのように、

「私、恋人はいないので、その辺りを気にする必要はないです」

 と言ってきたので、火原はほっとした。そこで気付く。どうして自分は日野の回答に安堵したのだろう。確かに、もし日野に恋人がいるなら、二人きりで個室を利用して練習しようなどという提案は即座に取り下げなければならなかったはずだ。その心配がなくなったことで安心したのだろうか……などとぐるぐる頭の隅で考えつつ、火原は明るい声で応えた。

「日野さん、綺麗な子なのに、恋人がいないなんて意外」
「火原先輩こそ平気なんですか」

 火原の社交辞令――かなり頑張って言葉にしたつもりだった――は無視し、日野が冷静に問うてくる。火原は、あ、うん、と地面に目を落とした。

「おれ、好きな子とか付き合ってる子とかいないんだ」
「そうなんですか。それこそ意外ですね」

 えっと火原が顔を上げると、言葉に反し、大して興味もなさそうな顔をして煙草を吸っている少女の横顔がある。この驚くほど冷めている様子は、最初こそ傷ついたものの、話しているうちに徐々に当たり前になってきて、今度は逆に一体何になら彼女は興味を示すのだろうという好奇心がそそられるようになっていた。
 日野は細く煙を吐き、いいですよと、感情のない口調で言った。

「火原先輩がヴァイオリンの音を聴いてみたいというなら」
「えっ……ほんと? 迷惑じゃない?」
「迷惑? いえ、むしろ私の方が先輩の迷惑なんじゃないですか。言っておきますけど、私、本当に何も分かりませんよ。楽器と楽譜をリリから手渡されただけで、まだヴァイオリンをケースから出してもいませんし、楽譜にも目も通してませんから」

 そもそも音楽記号さえ分からないのに……と珍しく不満げな表情で呟いている。本当にまったく知識のない状態でコンクール参加まで押し上げられたようだ。さすがに火原も日野のことが気の毒に思えてきた。

「迷惑なんて全然思ってないよ。ヴァイオリンは弾けないけど、オケで音は聴いてるし、楽譜のことはおれが教えてあげられると思う。伴奏も、ほんの少しだけならできるからさ」

 よろしくね、と笑みを浮かべて右手を差し伸べる。日野は驚いたように火原の手を見つめていたが、そのうち「よろしくお願いします」と薄く笑みを浮かべ、その手を煙草を持っていない左手で取った。
 触れ合った瞬間、火原の身体に電流のような痺れが走った。えっ、静電気!?と火原は思わず胸中で叫んだが、日野には特に痛がっている様子もなく、火原の手には、ただ彼女の手のひらの温度が伝わってきているだけで、二人の握手はあっという間に終わり、昼休みが終わって教室に戻った後も、彼女の小さな手の感触がずっと残っているのは一体何なのだろうと、手のひらを裏表に返しながら見つめ、授業をうわの空で受けながら、火原はひたすら不思議に思っていた。