翌日、火原は再び森の公園へ向かった。二日連続どこ行くんだよと笠原に不思議がられたが、コンクールのために集中したいと言うと、同じ音楽の道を志している手前、そうか……と真面目な顔をして教室から送り出してくれた。昼食後には、午後の気合としてトランペットを屋上で吹くのが恒例なのだが、昨日の放課後、寝不足な頭を奮い立たせて第一セレクション用の曲をさんざん練習したので、今日の昼は練習はパスしようと自分で決めたのだった。昨日頑張ったのは、無論のこと、日野に会いに行く時間を作るためである。同じ失態を起こさないよう、朝のうちにコンビニでパンと飲み物を用意してあった。
 コンビニのビニール袋を引っ提げて、人に見つからないよう気をつけながら斜面を登る。もしかしたら日野はいないかもしれないという懸念があったが、幸いにも、彼女は石に座って煙草をふかしていた。火原が来る可能性があるのに移動していないということは、他に喫煙場所がないか、秘密に握った人間に対し、大した警戒心を抱いていないからなのだろう。
 しかし、ここに来るまでの斜面、急すぎやしないか……と息切れしながら無意味な文句を胸中で唱え、日野に歩み寄る。煙草をくわえている彼女は、いつもと同じ冷めた目で火原を見た。

「また、来たんですね」
「ごめん、しつこくて。昨日、日野さん、いなくなっちゃったからさ」

 少しの嫌味を交えて言う。日野は反応せず、口から煙を吐いて目をそらした。あの、おぼろげな目つきで森の木々を見つめ始める。火原は日野の側に座り込み、あぐらの上に置いたビニール袋からカレーパンの袋を取り出した。

「それで、日野さん、コンクール出場は断ったの?」

 問うと、日野は「まだ」と短く答えた。火原も淡々とした口調で「そうなんだ」と応え、カレーパンをくわえた。

「迷ってるの?」
「断るつもりです。昨日の放課後は、すぐに帰ってしまったので」

 口から煙を吐き、やはり視線は前方に向けたままで言う。火原は彼女の横顔を見ながら、この子はどうしていつも気だるげなのだろう、授業中もこんな感じなのかな、みんなに心配されないのかな……と疑問に思う。

「リリに会う方法がよく分からなくて。ヴァイオリンを返したいのに」
「まあ、おれも日野さんの立場だったら、ちょっと考えちゃうかもしれないな。普通科の人間で、音楽をやったことがなくて、演奏もインチキみたいな状態だったら。音楽科の人間を敵に回すだろうし」
「……火原先輩は」

 その敵の中の一人になるんですか、と日野が問うてきたので、火原は彼女がそのような質問をしてきたことに驚きつつも、表情には出さずに(大げさに感情を出したら、日野に煙たがられるかもしれないという心配があった)、ゆっくりとかぶりを振った。

「おれは、音楽に携わったことがない人が音楽に興味を持ってくれるのはいいことだっていう意見の人だから、別にかまわないと思ってるよ。むしろ、普通科からコンクールに出るなんてすごいことだし、一緒に頑張りたいなって思う」

 努めて明るい口調で言うと、日野は火原を見て謎の沈黙をしたのち、また煙草をふかした。そして口からもわっと煙を吐き、目を伏せ、

「でも、音楽の世界って怖くないですか」

 などと言ったものだから、火原は仰天した。

「こ、怖い? 音楽が?」

 そんな意見が出るとは思いもよらないことだった。カレーパンをかじり、どうしてと問う。

「音楽の世界が怖いだなんて、おれ一度も思ったことないよ」

 トランペットを吹くことや、オーケストラ部で活動することは、火原にとって楽しみ以外の何ものでもない。机上の勉強は好きではないが、音楽と共に歩むためなら、音楽の知識を蔑ろにしてはいけないと自戒できるくらいの志はある。どうしてそこで恐怖という単語が出てくるのだと、火原には甚だ疑問だった。
 日野は、目を伏せたままそれ以上何も言わない。カレーパンが食べ終わってしまったので次はクリームデニッシュを食しつつ、彼女が口を開いてくれることを辛抱強く待っていたが、そのうち、またいつもの表情で木々を見つめ始めてしまったので、少し落胆して火原は続けた。

「あのさ、もしよければなんだけど、コンクールに出る出ないはさておき、一度おれと楽器の練習をしてみない? 魔法のヴァイオリンってやつの音色を一度聴いてみたいし、おれもトランペットを演奏するから、音楽を聴いてみてどんな気持ちになるか、様子を見てみてもいいと思うんだ」

 それ以前に喫煙の話もあったが、考えてみれば、それは誰にもばれなければ別段問題ないのだ。少なくとも学院の教師は知らないようだし、火原自身は進んで告発するつもりなどない。彼女の出方によっては告げ口も必要かもしれないと思っていた程度のことで、喫煙は確かに法律や校則違反になるだろうが、結局、どうするかは本人の問題なので、火原が追及する必要もなかった。それより大事なのは、普通科の生徒が音楽に興味を持ってくれるかもしれないという可能性と、音楽に恐怖を感じているという話ならば、それを拭い去ってあげたいという音楽に携わる者としての義務感だった。
 提案に対する日野の反応がどのようなものか、正直なところ、かなり怖かった。牛乳をストローで吸いながら緊張を隠し、静かに返事を待つ。日野は、何かを考え込むような素振りを見せたあと、新しく吸うための煙草を一本取り出して、ライターで火をつけながら火原を見た。

「でも、火原先輩も練習があるでしょう?」

 まさか心配をされるとは思っていなかったので、火原は動揺して飲んでいた牛乳を吹き出しかけた。

「えっ……おれ? おれは大丈夫だよ。いや、大丈夫って、自信があるわけじゃないんだけど。昨日も話したけど、どうしておれが参加者なんだろうって思ってるくらいだし、コンクールみたく誰かと競い合うことはそんなに重要じゃない……って、他の人たちの前ではさすがに言えないけど、たぶん、参加するかどうかに関しては、日野さんと同じくらいの気持ちだと思うんだ。おれは楽しんで練習して参加できれば、それでいいんだよね」

 この意見こそ、真剣に音楽の道を究めようとする人たち、たとえば参加者の中の月森のようなプライドの高い音楽科の人間が聞いたら許せないのかもしれない。おれも人のことは言えないんだろうな……と思う。