「でもさ、きみ、何の楽器で参加するつもりだったの?」

 せめてこれだけは訊きたい。日野は、相手に聞こえるあからさまな溜息をつき、煙草をふかして、少し経ってから答えた。

「ヴァイオリンです」
「えっ、ヴァイオリン?」
「魔法のヴァイオリンなんですって」

 現実的で冷めた印象の少女から、急にファンタジックな単語が出てきたので火原は面食らってしまった。思わず、おうむ返しになる。

「魔法のヴァイオリン?」
「火原先輩、お昼いいんですか?」

 更に話題を変えられ、火原は混乱しながら、ぎこちなくうなずいた。

「う、うん。きみの話を聞きたいし」

 とは言っても、昼食を抜いたら午後の体力が持たないだろう。購買で何か買ってから来ればよかったと思うが、もしそうしていたら、日野の姿を確実に見失っていたばずだ。そもそも日野こそ昼食を取るつもりはないのだろうか。そこで思いついて火原は言った。

「ね、日野さん、もしよければ、購買できみの分も買ってこようか。そしたら二人で食べられるじゃない」
「吸ってるときは食事摂らないんです」

 即答だった。火原の友人は人懐っこく人当たりのよい人間ばかりなので、こんなふうに、どちらかというと冷たいと評されるような人間と関わるのは苦手だった。日野は単純に問いに答えているだけなのだろうが、表情がないので、どうしても気後れしてしまう。
 昼食は、後ほど急いで食べるのも手なので、一時諦めて、話題を元に戻す。

「で、なんなの、その魔法のヴァイオリンって」
「リリがくれたんです。今は手元にないけど、あのヴァイオリンであれば素人にも弾けるって」
「え……それってアリなの?」
「ナシなんじゃないですか」

 煙草が切れてきたので、日野は携帯灰皿を出してそこに捨て、箱から再びもう一本取り出し、先ほどと同じ火をつける作業を繰り返した。今回もまた、火原は彼女の動作をまじまじと観察してしまう。
 新しい煙草で煙を吐きながら、日野は木々の葉を見上げた。天気は曇りだ。もし太陽が照っていれば木漏れ日が綺麗なのだろうと、彼女と同じ方を見上げて火原は思う。

「辞退しますから。リリから話をもらったときも、抵抗したんですけどね」
「でも、リリのことだから弾いてくれってせがまれたでしょ。妖精が見える人なんて、おれは柚木しか知らないし」

 言いながら、自分は一体日野にどうしてほしいのだろうと考える。そもそも、ここまで彼女を追ってきた理由はなんなのだろう。喫煙をやめる気はなさそうだから、これ以上言っても無駄だし、コンクールを辞退しろと告げに来たわけでもない。おそらく、彼女は一体どんな人間なのだろうという好奇心からなのだろうが、どちらかというと関わり合わない方がいいタイプの人間に対し、色々と話してみたいと考えている自分自身がいることが、火原には心底不思議だった。

「魔法のヴァイオリンっていうのはよく分かんないけどさ、それはきっとファータが見える人しか扱えないんでしょ。だからリリは日野さんに演奏を頼んだんだよ。この際、魔法がどうのっていうのは黙っておいて、試しにやってみればいいんじゃない?」

 煙草のことはさておき、たとえ素人であっても音楽に携わり、楽しんでくれる人が増えるのはいいことだ。

「おれ、聴いてみたいな、その音色」
「だってインチキでしょう」

 ずばり言ってくる。火原は、日野の冷めた横顔を見ながら、うーんと唸った。

「まあ、そうかもしれないけど。金澤先生は知ってるの? 魔法のヴァイオリンのこと」
「と、思いますよ。言及はしてませんけど。もし認めたら、それこそ問題なんじゃないですか」

 なるほどと火原は思ったが、金澤が知っていて知らんぷりをしているのなら、彼女の喫煙と同じくらいにまずいのではないだろうか。音楽科の生徒たちに知れたら、怒りを買うどころでは済まされない。金澤の教師人生も関わることになる。

「じゃあ、ヴァイオリンのことを知ってるのは、他におれだけってこと?」

 日野は火原を見て、無表情で頷いた。

「ええ」

 そのとき、火原の中にあったのは二つの感情だった。一つは、日野の喫煙と魔法のヴァイオリンという秘密を二個も握らされてしまったという憂鬱、もう一つは、その二個の秘密を自分だけが知っているという得意げな気持ち。いや、喫煙については、知っているのが自分だけとは限らないかもしれない。他に誰が知っているのか訊いてみよう口を開いた瞬間、火原の腹が盛大に鳴った。日野にも確実に聞こえてしまった音量だ。恥ずかしさで頬が熱くなってくる。
 居たたまれなくなってうつむいたとき、ふふっという微かな笑い声が聞こえてきた。

「お腹空いてるんじゃないですか。お昼、食べた方がいいですよ」

 先ほどから表情のなかった日野が笑ったという驚きで、思わず顔を上げる。そこにあったのは、雨の日に見たときと同じ微笑だった。大人びていて、優しげで、どこか悲しそうに見える笑みだ。
 火原はなぜか羞恥を覚えて、彼女から視線を外し、ぽりぽりと頭をかいた。

「ひ、昼メシ、買ってくる。ねえ、日野さん、まだここにいるよね? おれ、もう少しきみの話を聞きたいんだ。すぐ戻ってくるから、お願い、待ってて」

 返事を待たず、火原は素早く腰を上げると、先ほど登ってきた斜面を転ばないように慎重に、しかし急いで降りていった。まだ顔が熱い。あの日もそうだったが、この妙な焦燥感は一体なんだろう。むずがゆいような、恥ずかしいような、これまで感じたことのない変な気持ちだ。一連の会話の中で色々な感情が渦を巻いたが、確実に言えることは、彼女に宣言した通り、日野の話をもっと聞いてみたいということだった。
 火原はエントランスに駆け込み、先ほど見た時よりは少なくなっている生徒たちの後ろに並んで、まだ残っていたメロンパンと牛乳を買い、再び走って森の広場へ行った。息切れを誘う斜面を懸命に登り、ようやく先ほどの小さな空間が見えた時、日野の姿は、すでにそこになかった。