普通科でコンクールに出るほどの実力があるなら、一度聴いてみたいし……
 いや、でも、そもそも校則違反している時点で出場資格なんてないんじゃ……
 それを知っている自分がこのまま隠し続けていたら、共犯? 出場停止?
 だからって告発したら、彼女、もう充分目立っちゃってるし、おれってかなり悪者になるかな?
 などとコンクール出場発覚から丸一日考え込んでいたせいで、疲れてしまった。夜もよく眠れず、舟をこいでいたら授業で怒られて散々だった。もともと悩み慣れていないせいで、一度こういうことがあると長く続く自覚があるのだ。柚木や友人に話してすっきりすることが大半だが、今回の案件だけは口外できなかった。
 憂鬱が募るなあ……と痛い頭を抱えながら昼休みに購買へ向かっていたとき、生徒たちで混雑しているエントランスの入り口で、日野の姿を見つけた。一人だ。手には何も持っていないので、購買で何か買ったわけではないらしい。まだ昼休みが始まったばかりだというのに、彼女は何か目的があるかのように素早く外に出て行ってしまった。
 火原は立ち止まって考え、生徒たちで溢れ返っている購買の前を一瞥して、走った。日野を追うために。
 日野は急いでいるわけではないようで、すぐに追いつきそうになったが、話しかけるのには少しためらいがあって――なんせ、まだあの雨の日しか会話を交わしたことがないのだ――距離をとって、彼女の後ろを歩くことにした。なんだかつけてるみたいだと後ろめたさを感じたが、もし気付かれても、同じコンクールの参加者なのだから、それが理由になるだろう。
 日野は歩む速度を変えずに、森の広場に入った。放課後こそ練習目的の音楽科の生徒が多いものの、昼休みは学院から少し距離があるせいで、実はそれほど人がいない。彼女は舗装されている道なりに歩いたのち、なぜか北側の木々の茂る方に突っ込んでいった。見失ってしまいそうになり、慌てて走り寄る。森の広場は楽譜練習のため火原もしばしば利用していたが、広場から外れている場所は当然、道などないし、そもそも広場を囲むようにしてある上りの斜面は立ち入り禁止なので、入ったこともない。彼女の目的地は更に奥にあるようで、木の幹と雑草だらけの斜面を慣れた様子で登っていった。スカートの中が見えてしまいそうになり、火原はどうしたものかと戸惑ったが、このまま戻るのは嫌だったので、下を向いて後を追った。少しして顔を上げると、先に斜面を登り切った日野の姿が見えなくなってしまっていて、火原は細い木の幹を掴みながら急いで駆け上がり、ようやく斜面が平坦になる頃には、かなり息切れしてしまっていた。
 はあ、はあと荒い息をして顔を上げる。少し離れたところに日野が石を椅子にして座り、こちらを見ながら目を丸くしていた。手には煙草の箱が見える。やっぱり、と息を整えながら、火原はそちらに近づいた。

「日野さん。煙草を吸うためにここに来てるの?」

 石の周りは小さな空き地のようで、人二人分くらいの空間がある。周りには木々が茂っているので、かなり圧迫感があるのだが、隠れて煙草を吸うにはもってこいなのだろう。きっと彼女の秘密の場所なのだ。
 日野は停止していたが、火原がすぐそばに来ると、気だるげに息をついて、箱から一本煙草を取り出した。

「見つけちゃったんですね」
「ごめん、気になってついてきちゃった」

 可憐な制服姿の乙女のスカートからライターが出てくるのは、なかなか衝撃的な光景だ。日野は脚を組み、煙草をくわえると、ライターを慣れた手つきで使って煙草の先端に火をつけた。一度吸い、すうっと吐くと雨の日に見たように煙が立ち上って、佇む火原に煙草の匂いが届いた。
 一連の動作を見つめてしまっていたことにハッとしつつ、火原は、その場にしゃがみ込んだ。

「ねえ、学院で煙草はさすがにまずくない? 見つかったら大ごとになるよ」
「そうでしょうね」

 日野は大して気にしてもいなさそうに応え、あの、海を見つめていた虚ろな目つきで、どこでもない場所を眺めた。結わえていないストレートの赤い髪が顔の横にかかっていて、唇の隙間から煙が出てくる様は、未成年者でいけないことだとは分かっているが、どことなく魅惑的で見とれてしまいそうになる。
 おれ一体何しに来たんだろうな……とここまで自分の取ってきた行動を不思議に思いつつ、しゃがんだままで足が痛くなりそうだったので、地面に直にあぐらをかいた。

「ねえ、きみ、コンクール出るの?」

 日野は、ふうっと煙を吐いて火原を一瞥し、

「出ないです。素人だし」

 淡々と答える。素人という単語を聞いた火原は、眉を上げた。

「素人って?」
「楽器なんて触ったことないですし、楽譜も読めません」
「は? じゃ、なんでコンクール参加者の一覧に載ってたの?」

 掲示物には、音楽科の生徒と同様に日野の名前が並べられていたのだ。特に注意書きのようなものもなかったし、あれでは皆が彼女のことを他の参加者と同じ実力を持っている人間だと思うだろう。

「楽器を触ったこともないような人が参加できるものじゃないよ?」
「……火原先輩も見えるのかな、あれ」

 煙草を指に挟み、独り言のように呟いている。ファータのことを言っているのだと気付き、火原は頷いた。

「うん。妖精でしょ。音楽の。おれは見える人だよ。あれ、見える人と見えない人がいるんだって。見えない人の方が多いみたいだけど、ファータは音楽の妖精だし、君も見えてるってことは、音楽に何かしらの関わりがあるんじゃないの?」
「素人ですよ」

 感情のない声だ。煙草を持つ右手は組んだ脚の膝に置かれていて、視線は相変わらず明後日の方向を向いたまま。こちらを見向きもしないのは、いつも友人たちに囲まれて賑やかな環境にいる火原にとっては、少し悲しいことだった。本当はひとりきりで過ごす場所なのだろうから、火原がここにいることは、日野にとって迷惑なのだろう。さっさと消えた方が彼女のためなのだろうが、コンクールに出る人間が素人であるということに関しては、音楽をやる者として食い下がるしかなかった。

「言っておくけど、あのリストに載ってた参加者は強者揃いだよ。おれは楽しんで演奏できればそれでいいって思ってる人間だけど、なんで載っちゃったんだろうって驚いてるくらいなんだから」
「辞退しますから」

 遮ってくる。もう話を切り上げたいという口調だった。苛立っているのだろう。勝手に秘密の場所までついてきて発見されてしまったのだし、日野からすれば、秘密をばらす危険性のある存在は気に食わないに決まっている。