張り出されたコンクール参加者一覧に「日野 香穂子」という名前があったので、火原は唖然とした。日野という苗字は比較的珍しい方で、しかも普通科の女子ということなので間違いない。あの雨の日、煙草を吸っていた少女だ。二年生だったのだなという発見と同時に、いやこれはまずいのではないかという気持ちが生まれ、火原はざわついている掲示板の前で思わず呟いた。
「問題あり、なんじゃないのかな……」
「やっぱり和樹もそう思う?」
後ろから肩を叩き、笠原が言う。
「名前も初めて聞いたよ、俺。向こうにそんなに楽器できる子いたっけ? 他のメンツはみんな音楽科なのにな」
自分が彼女と同じ立場だったら辞退するよと、笠原はいつもの冷静な様子で呟いている。周囲の生徒は、同じく参加者一覧に載ってきた火原に「おめでとう」の声をかけてくれたが、それ以上に聞こえてくるのは「普通科の生徒がどうしてコンクールに」という不満の数々だった。
繰り返し繰り返し、火原の脳裏に霧雨の景色が再生される。赤い髪の少女が煙草をくゆらせ、心ここにあらずといった様子で海を眺めている姿。あの女の子がコンクールに出られるほどの実力を持っていることも驚きだが、それ以前の問題は、彼女は未成年なのに喫煙している人間だということだ。学院側はまだ何も知らないのだろう。喫煙がばれていたらコンクールなど出られないはずである。
もしかして、おれしか知らないのかな……と、あの日に見た光景が秘密のようなものになってしまうことに憂鬱を感じた。
「火原、絶対に負けるなよ、普通科の子なんかに」
友人たちがわしゃわしゃと頭を撫でてくる。適当に言葉を返したが、火原は頭の中は、果たしてこの秘密をどうしたものかという悩みでいっぱいだった。
放課後、オーケストラ部の打ち合わせで音楽室に行くと、日野がいた。火原のいる場所からは後ろ姿しか見えなかったが、階段状になっている机の前の列に金澤と並んで座っていて、どうやらコンクールの説明を受けているらしかった。書類を見て頷くたびに、赤い髪がさらさらと揺れている。
火原の出場を喜ぶ部員や友人たちを適当にあしらいつつ、そろそろと二人の方に近づく。日野が、一体どのような表情で金澤の話を聞いているのか知りたかった。だが、そのとき丁度話が終わったらしく、日野は金澤に頭を下げて、そそくさと音楽室を後にしてしまったので、顔を盗み見ることはできなかった。「あの子だよ」という音楽科の生徒たちの囁きや視線が痛かったのだろう。
「金やん残酷。どうして音楽室なんかで説明するの」
頭の後ろで手を組み、金澤の隣に腰かける。金澤は「ああ火原か」と素っ気なく言って、手元の書類をまとめ始めた。
「コンクールには度胸も必要だからな」
「こじつけ。ねえ、あの子、本当に参加するの?」
どちらかというと参加して欲しくない口調なのは、普通科云々ではなく、隠れて校則違反をしている状態なので、もしそれがばれたら彼女の学院生活がまずいのではないという心配からだ。一度目立ってしまえば、それだけ噂も大きく広がる。
金澤は、冷めた表情で「どうだかな」と呟いた。
「まだ決めかねてるんじゃないか? なんせ普通科で、こっちにはいづらいだろうし」
「ねえ……あの子が出場することは金やんが決めたんだよね?」
「違うよ」
無論あの掲示物を作ったのは俺だが、と溜息をつき、
「見えちまったんだから仕方ないだろ」
「見え? ……ああ」
ファータのことかと、声には出さず目で合図すると、金澤は火原の視線を受けて頷いた。
「気の毒だが、俺は説明したし、判断は本人に任せる。ていうか、火原は日野のことは気にせず、自分の演奏に専念しろよ?」
「分かってるよ」
俺は職員室に戻るぞと金澤が席を立ったとき、後ろからオーケストラ部の打ち合わせが始まることを知らされたので、火原ものろのろと腰を上げた。