ある雨の日、彼女は煙草を吸っていた。
 記憶をたどるたびに、まるで夢の中にいたようだと、火原は思う。

 湿っぽい空気と肌にまとわりつくような霧雨、おぼろげに白くぼんやりと光る風景。
 海の近くの公園の、海を正面にするベンチに一人座り、煙をくゆらす少女を見かけたのは偶然だった。
 よくない天気だからなのか、この界隈で何もイベントがないからなのか、いつもは大勢の観光客でにぎわう休日だというのに、今日の公園は不気味なほど人気がなく、静まり返っていた。霧雨のせいで運動する気にもなれず、楽器が雨に濡れて傷むことも避けなければならないので、散歩をする目的で、火原は公園の中をぶらついていた。いつも友人や学院の仲間たちが周りにいて、冗談で笑い合い、音楽を奏でて、毎日目まぐるしいほど忙しいのが当たり前だから、今日のように何も用事がない日は珍しかった。
 緑のパーカの下に黒いティーシャツ、デニムパンツ。家の中にいる状態のまま出てきたという姿で、傘は差さずに歩きながら、火原はベンチの前を通りかかった。自分と座っている人以外に誰もいなかったせいだろうか、なんとなくベンチの方に目をやると、一人の女性が煙草を吸っていた。この国で煙草を許されている年齢にしては顔立ちが少し幼くて、不良なのかな……と、視線が観察するものに変わり始めたとき、あれっと火原は気がついた。
 女性の艶やかな赤毛に見覚えがあった。手足が華奢な、どちらかというと痩せ気味な少女。大きな目が可愛らしい顔立ちにも覚えがある。
 そうだ、あの子は、星奏学院の女の子だ……
 今は白のブラウスに青の膝丈のスカートという普段着だが、記憶の中にある普通科の制服の姿が重なって確信した。以前、学院の校門付近で見かけたとき、脚の細い子だなあとうっかり下半身を眺めていたら、隣にいた友人がにやにやしながらからかってきて、慌てて視線を外したのだ。その際、背中に少しかかる程度の長さの赤い髪にも意識が行って、綺麗な髪だと遠目ながらに思った。
 思い出したはいい。が、問題は喫煙をしているという事実だ。
 星奏学院は学校の中でも厳しい方だし、教師にばれたら注意だけでは済まないかもしれない。彼女が同級生か後輩か、今の時点では分からなかったが、同じ生徒として止めた方がいいのではないだろうか。いや、でも、会話したこともない人に急に注意されても、相手は不快になるだけで、言うことなど聞かないだろうし……
 ぐるぐる考えているうちに、歩みが進んで、ベンチが後方になる。考え込む火原の足取りは遅くなり、そのうち止まった。そして意を決すると、踵を返してベンチの方に向かった。
 煙草を吸う少女は、ぼんやりと海を眺めている。その目つきは虚ろで、心ここにあらずといった感じだった。

「あの」

 ベンチを見下ろしながら火原が声をかけると、少女は煙を口から細く吐き出して、ゆっくりと目線を上げた。

「はい?」

 あんた誰、とでも言いたげな目つきである。
 火原は少しひるんだが、今更引き下がれないと気を奮い立たせた。

「きみさ、星奏学院の子だよね」
「……はあ」

 見つかってしまったと焦る様子もない。
 右手の指に挟む煙草から、つうっと線になって煙が立ちのぼる。火原は、その煙を見つめながら続けた。

「煙草、まずいんじゃない? 先生たちにばれたら」
「星奏の方ですか?」

 その口調はどこか眠たげで、憂鬱そうで、火原のことなどどうでもよさそうだった。学院では友人たちと笑っている姿も見ていたと思うが、そのときの彼女からはかけ離れた様子だった。
 一体どうしたことだろう、何か嫌なことでもあったのかな……と戸惑いを覚えつつ、火原は頷いた。

「おれ、音楽科三年の火原。きみのこと、学院で見かけたことがあってさ。煙草を吸ってたから、びっくりしちゃって」
「……」
「気を悪くしたならごめん。でも、もし見つかったらただでは済まないし、何より、煙草は吸っちゃだめな年齢だよね」

 少女は返事をせず、火原から視線を外し、再び海を見た。眠たげな瞬きで、長い睫毛がゆっくりと上下している。
 煙草の火がくすぶる。霧雨のせいで火は消えないものなのだろうかと、火原は不思議に思う。
 彼女が何かを考えているのか、何も考えていないのか、よく分からなかったが、このまま諦めて帰るのも少し癪だった。

「煙草は身体によくないっていうし、校則はさておいても、やめた方がいいよ」

 咎める口調にならないよう、極力気をつけながら言う。すると少女は再び火原を見上げ、今度は、微笑した。

「そうですね……」

 てっきり「あなたには関係ないでしょう」と突き放されると思っていたのだが、意外にも彼女はそう返した。面食らって火原が言葉を失っていると、少女はまた海を見て、煙草をふかし、細く煙を吐いて、そのまま沈黙した。
 虚ろな表情だった。たぶん火原の言葉は何も伝わっていない。いや、話は聞いてくれたようだが、こちらの言うことを聞く気はさらさらないのだろう。誰かが煙草を咎めるのは当然だが、こちらにもそれなりの理由があるのだ、と暗に言っているような気がして、ではその理由とは一体何なのだろうと、火原は彼女の隣に断りもせず腰かけた。
 少女は、火原の行動に対し、なんの反応も示さなかった。顔色は、肌寒さからだろうか、少し青ざめている。霧の中、赤い髪と煙草の煙が浮かび上がる光景は不可思議で、幻想的だった。

「どうして、煙草を吸うの?」

 注意しているのではなく、単純な興味で訊いているだけであることを主張する明るい口調で、火原は問う。
 少女は煙草を唇から遠ざけ、海を見たまま口元に笑みを浮かべた。

「さあ……どうしてでしょうね」

 その声が、決して怒っているわけでも隣の男を迷惑がっているわけでもなく、ただ穏やかに優しく響いたのが疑問だった。同時に焦燥感のようなものを抱き、火原はどうして自分がこんな気持ちになるのか分からなくなって、もしかしたら海に答えがあるのではないかと思い、少女と同じように海を見た。灰色にくすんだ海は、霧に溶けてしまっていて、遠くの方は見えず、天と海の境目も判別できない。海というよりは、厚い雲を眺めているようだった。
 どうして彼女は、晴れた日ではなく、こんなふうに霧雨が鬱陶しい日に海を眺めているのだろう。きらきら太陽に反射している海の方が、絶対に綺麗に決まっているのに。

「私、そろそろ行かなきゃ」

 不意に少女が言ったので、火原は振り返った。少女はすでに立ち上がっていて、火原の方を見もせず、背を向けて、傘も差さないまま遠ざかっていった。
 火原は呆気に取られていたが、はっと気付いて呼びかけた。

「あ、ねえ。名前は」

 答えてくれないかもしれないと思ったが、幸い、少女は歩いたまま振り返り、

「日野です」

 と短く言って、霧の中に消えていった。
 火原はその後もベンチに座って、少女の消えた方を眺めていた。その間もほとんど人通りはなく、防波堤に砕ける微かな波の音だけが聞こえていた。
 つい先ほどまでの記憶をたどる。
 白い霧と煙草の煙に、赤い髪。淡い色と濃い色の二色が、ぼうっと内側から光るような景色に滲んで、溶ける。
 日野という少女の物憂げな横顔は、同世代の人々よりも、自分よりも、ずっと大人びていた。
 多分、火原は見とれていたのだった。
 少女の姿が「きれいだ」と感じて。