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 森を抜けると、彼と共に訪れた秘密の湖がある。中央が深いエメラルドグリーンを帯びた、セイランが泳ぐにはもってこいの自家用プールだ。
 髪の毛についた木の葉を取り払いながら湖の前まで来ると、セイランは周囲を見回して少し笑った。長らく来ていないうちに、辺りには様々な植物が増えていた。湖の周りはちょっとした野原になっていて、晴天の下に色とりどりの花が咲いており、目に鮮やかだ。
 ここに最後に来たのは彼が聖地を去る前だった。彼との思い出のある場所に、記憶を甦らせることが恐ろしくて近寄ることが出来なかった。ようやく来たよと心の中で呼びかけると、湖の周囲にある草木がぼんやりと緑の守護聖に応えた。久しぶりだねとでも言っているのかもしれない。
 セイランの手には、一輪の白いばらがあった。闇の守護聖の館の近くに咲いている野ばらの一つで、あまり盛大には咲き誇らないが清潔感があってセイランの気に入っていた。本当は売り物にされている完璧な花の方が彼には馴染むと思うが、花屋で買うのは何となく気が引けた。
 湖の縁まで来て、セイランは水面を眺めた。湖なので風がない限り波は立たない。
 どのくらいか分からないが物思いにふけったあと、セイランは手に持っていた白ばらを湖にかざした。

「こんなので本当に君、喜ぶの?」

 彼に対してよく使っていた皮肉めいた口調で言う。無論のこと返事はない。君は悪趣味だよと小さく笑ってから、セイランは手からばらを放した。白ばらは真っ直ぐ落ち、湖面に音も立てずに着水する。その後はゆらゆらと水の動きに従って揺れるだけだった。
 あまりにあっけない一連の動作に、セイランは不安になって、その場にしゃがみ込んで水面のばらを見つめた。
 こうすることで、彼からコンタクトがあるのではないかと期待していた自分がいた。女王や闇の守護聖が言ったことが本当かどうかセイランは知らない。それでも、こうすることで意味があるのだとしたら、今や魂だけの存在か、あるいは転生しているであろう彼が、セイランの散華に反応して何か一言でも声をかけてくれるのではないかと考えていた。
 けれど、いつまで経っても、そこには何も訪れなかった。時おり微かに風が吹いて湖面が揺れ、ばらが水の上を移動している以外には、何も無かった。鳥のさえずりと木の葉のさざめきと自分の小さな呼吸音だけが耳に届いて、セイランは急に泣きそうになった。生きている自分と、死んでしまった彼との絶対的な距離。いつもの自分ならば、きっと悲しさと寂しさで涙を流していたことだろう。
 だが、セイランはこらえた。
 とうとう自分の時間を動かす時が来たのだ。あの陰鬱な闇の守護聖が、自分に生きろと、もう悲しむなと言ってくれたではないか。もしかしたら彼も、クラヴィスの立場だったら同じことをしたかもしれない。
 クラヴィスが与えてくれた言葉がすべて嘘だとしても、その嘘は、決して非ではない。

「クラヴィス様と君って、やっぱり似てる気がするよ」

 しゃがんだ膝に顎をつけながら、ばらを見つめ、セイランは微笑した。

「意地悪だけど」

 君たちはつくづく性悪だよね、と口を尖らせる。





 愛するものを失った後の世界に意味があるのか、それとも無いのかは、失った本人が決めるものだ。

「でもね」

 しかし、愛するものを失った後の世界に意味を持たせるものは、時に、他の誰かから与えられたものかもしれない。

「僕、けっこう君たちのこと好きだな」

 セイランは立ち上がり、漂う白いばらにそう言った。

「ま、気が向いたらだけど、また来るよ」

 湖面に向かって手を振り、踵を返す。





 そのとき風が吹いた。今日の気候にしては、少し強い風だ。
 歩んでいた青年は立ち止まる。木々たちが自分に訴えかけるようにざわめいている。
 木の葉が乱れる。青年の髪と服の裾が舞い上がり、身体が少し持ち上げられるような錯覚を抱く。
 周囲を見回して様子を伺う。胸がどきどきする。
 予感がする。

「ああ」

 青年は、振り返って湖を見つめた。白ばらは風に吹かれて、湖面の真ん中へと進んでいた。
 その軌跡を目で追いながら、セイランは、優しい笑みを浮かべて頷いた。