セイランは、執務室の窓辺から外を眺めていた。
 聖地はいつでも晴れているが、乾燥を防ぐため、研究院が定期的に雨を降らせるようにしている。今日がその日で、宮殿の庭にある草木には、天からの恵みが静かに降り注いでいた。植物たちのみずみずしい姿を見ることが好きなのは、自分が生命を司る緑の守護聖だからなのだろうと、窓際の白い丸テーブルに頬杖をついて、ぼんやりと物思いにふけっていた。
 一度は宮殿に出仕したものの、朝から全く仕事に手が着かなかった。最近は職務怠慢が顕著なので、女王補佐官殿が怒っているようだ。しかし、セイランが憂鬱のために仕事がしたくても出来ない状態であるということは理解しているため、直接毒づかれることは無かった。せいぜい、廊下を通りかかった他の守護聖が、気を遣って飲み物などを差し入れてくれる際に、そういえば補佐官殿があの仕事をやって欲しいと言っていたと仄めかす程度である。実際、自分のせいでかなりの仕事が滞っており、守護聖補佐が必死に代役を務めてくれていた。セイラン自身も、いいかげん周囲に迷惑をかけるのは嫌なのだが、書類にミスが目立ちすぎると逆に補佐官の足を引っぱってしまうので、今は仕事と上手く距離をはかるしか方法がなかった。
 いつまでもこうしてはいられないのに、いつまでもぼんやりしているのはなぜだろう。
 もし、あのとき湖の中に沈み、今この場所にいなかったとしたら、自分という存在は一体どうなっていたのだろう。己の魂は、どこへ行ったのだろう。この深い悲しみは癒されていたのだろうか。ふと気が付くとこのように考え込むのは無意味だという空虚感が起こり、暗い気持ちになる。その繰り返し。彼が聖地から消え、宇宙からも消え去ったときから、セイランの心は長いあいだ空っぽのままだった。
 降り注ぐ雨を心ここにあらずで眺めていると、執務室のドアがノックされた。最初は躊躇ったが、仕事のことだと悪いと感じて返事をし、招き入れた。
 てっきり先ほど出て行った補佐官が戻ってきたのかと思ったのだが、ドアを開けたのは別の人物だった。黒いローブを着て、切ってしまえば良いのにと思うほどの長い黒髪を垂らし、冷たげな表情でのっそりと入ってくる。この自主的に動こうとしない闇の守護聖が自分の執務室を訪ねてきたことに、セイランは驚いた。

「クラヴィス様?」

 一体何用だと、椅子から立ち上がり、怪訝な声で男の名を呼ぶ。闇の守護聖は、事務机に目を通すべき大量の書類が積まれているのを一瞥してから、視線をセイランに合わせた。

「少し、話したいことがあってな」

 セイランは内心戸惑ったが、動揺を隠すために、小さく肩をすくめてみせた。

「珍しいですね。急用ならば、僕を呼んでくだされば良かったのに」

 丸テーブルの前に立ちながら、お茶でも飲みますかと何気なく訊く。クラヴィスはゆるゆると首を横に振り、少し離れた場所から窓際にいるセイランを無表情で見つめた。男が漂わせている神妙な空気に、セイランもどう出て良いのか分からず男を見つめ返す。

「……何か?」

 以前、湖に飛び込んだ自分を救い上げたことを感謝しろとでも言いにきたのかという皮肉る言葉が脳裏をよぎったが、言ったところでどうにもならない。
 黙っているうちに、クラヴィスが口を開いた。

「これをお前に話すことで、結果的に良いのか悪いのか、私には分からぬが……」

 ふと目線を床に移し、考えるような仕草を見せてから、クラヴィスは顔を上げてセイランを見据えた。

「聖獣の女王に尋ねた。フランシスは、何か言葉を遺してはいないかと」

 男が口にした、かつての闇の守護聖の名に、身体が瞬時にこわばった。背筋に悪寒を感じ、これから放たれる言葉が恐ろしくなって、ここから逃げた方が良いかもしれないと考えたが、男の台詞に仄かな期待を抱いたのも確かだった。結局、両足はその場から動いてくれなかった。
 明らかに緊張の色を顔に浮かべ、セイランは口を閉じたままクラヴィスを凝視した。

「……女王は万能だ。時の力さえ操る。元聖獣の闇の守護聖フランシスの魂が遺した言葉はないのかと、彼女に尋ねてきた」

 心に期待が生まれたのを感じ、セイランは自分自身に嫌悪を覚えた。捨て去ろう、捨て去ろうと思っていた己の願いを、目の前の男に再び知らしめられたことに腹が立った。自分が問いたくても問えなかったことを、クラヴィスが勝手に女王に問いただしていたことも悔しかった。しかし、それでもセイランの口から文句がついて出てくることはなかった。男の言葉を止めたくはなかった。クラヴィスならば――この、彼と親しかった闇の守護聖ならば、決して自分をむちゃくちゃに傷つけてしまうことなどは言わないと確信していた。

「女王は言った。彼の遺したこの言葉が、果たして本当なのかどうかは私には分からぬ。しかし、宇宙を統べる女王の力だ、何かしらの根拠があるものなのだろう。
 お前に対して遺した言葉がある。お前が……」

 瞼を閉じ、クラヴィスは、一語一語噛みしめるように紡いだ。

「お前が苦しむとき、悲しむときは、お前のそばにいると。
 実体が無くなればお前を直接慰めてやることは出来ないが、つらいときには、姿が見えなくともそばにいると。
 彼は、そう言ったそうだ……」

 セイランは、クラヴィスの言葉を訊き、じっと床を睨んだ。握りしめた両手は小さく震え、全身が粟立っていた。血が出そうなほど唇を噛みしめ、男の放った言葉を何度も頭の中で反芻する。
 嘘だと思った。あの、元闇の守護性が、自分に決して真意を見せなかった男が、自分にそんなありふれた言葉など遺すはずがないと思った。

「嘘です」

 床をねめつけたまま、セイランは吐き捨てた。

「彼がそんなことを言うはずがない」

 攻撃的な口調に、クラヴィスは至って冷静な様子で答えた。

「どう思おうがお前の勝手だ。私は女王が語ったことそのまま伝えているにすぎない」
「信じられない」

 かぶりを振り、セイランはもう一度言った。

「嘘に決まっている」
「どう思おうが、お前の勝手だ。私は女王が口にした言葉をありのまま述べているだけだ。他意など無い」
「なら、どうして僕にそれを伝えに来たんです。僕に同情しているからではないんですか。同情ゆえにあなたは嘘の言葉を作り上げて、僕に言い聞かせようとしている。そうなんでしょう」
「前にも言ったが」

 小さく嘆息し、クラヴィスはセイランが佇んでいる窓際へ歩み寄った。男が自分に近づいてくることに抵抗を感じ、セイランは数歩後ずさる。
 クラヴィスは、先ほどまでセイランが座っていた白い丸テーブルの前に立つと、壁に寄りかかり、大きな窓から庭を眺めた。

「前にも言ったが、私は、お前の為すことに興味は無い。関心を持ったところで、お前にも私にも得など無いし、意味も無い。この件を女王に尋ねたのも、お前の時間が動き出さぬ限り、周囲の者もお前自身も気まずいままだからだ」
「誰かに頼まれたんですか? 嘘でもいいからフラ……彼の言葉を捏造して、僕に言い聞かせろって。僕に仕事をして欲しいから」
「お前の仲間たちはそこまで陰湿ではないな」

 呆れたようにクラヴィスは苦笑した。

「単なる私の気まぐれだ。そろそろお前の停滞を破らねば、聖地にも悪影響が出るだろう……」

 聞きながら、セイランはやはり男の言っていることは偽りだと疑っていた。クラヴィスも同じく不本意ながら聖地に連れてこられ、聖地に対し快い感情を抱いていない者の一人である。そのような人物が、いちいち聖地を守ろうと自分のような人間のために動くはずが無いと思った。
 だが、もしこれが彼の嘘だというのならば、クラヴィスがここに来たのは気を遣ってくれているからではないのか。そう思い当たると、セイランの心は複雑だった。安らぎを司る存在ゆえかどうかは知れないが、寂しさに暮れている緑の守護聖の心を癒すために、この出不精な男がわざわざ聖獣の聖地まで赴いて自分に嘘を言いに来たとする。ならば、それもまた自分にとっては下手に文句をつけられないことなのではないか。
 ぐるぐると考え込んでいるセイランの心境に気が付いたのか、窓の外を見て沈黙していたクラヴィスは言った。

「もう一つ。これは女王の意図かもしれぬが」

 意味深長な出だしに、セイランはクラヴィスの横顔を見つめて続きを待った。窓辺に佇む男の表情は相変わらず冷淡で、何を考えているのか分からない。しかし、窓から入る外の明るさに彼の端正な顔が照らされるその神聖な姿に、その時ばかりはクラヴィスが闇を司る者だということを忘れてしまった。

「もし……彼の魂を癒したい、少しでも安らげたいと思うのならば、あの者が好きだった花を水辺に投げろ……と」

 言いながら、クラヴィスは外からセイランへと視線を移した。切れ長の目から覗く紫の瞳は透き通っていて、とても綺麗だった。

「……」
「信じる信じないはお前の自由だ」

 壁にもたせかけていた身を起こし、クラヴィスは薄く微笑すると、静かに踵を返した。セイランは、床に引きずられている男の黒衣の裾を眺めながら険しい表情になっていたが、言葉は発さなかった。

「仮に、今伝えた言葉が全て嘘であったとしても、これらの言葉に、意味が無いと言えるかどうか、よく考えることだ。彼ならば、きっと一つの手段として、女王のしたことも私のしたことも許すだろうな……ただの予想だが」

 笑みを含んでいる声に、セイランは顔を上げてクラヴィスの後ろ姿を見る。長い黒髪が滝のように背中に流れており、まるで似ても似つかないのに、その姿がかつての闇の守護聖と重なった。
 男が遠ざかり、執務室のドアの前に立っても、セイランは唇を閉じたままだった。

「では、な」

 短く言い、闇の守護聖は部屋を去っていった。