青年は 何を思ったのか

 森の湖で 水面に向かって

 自らの身を投げた

 その先に

 逢いたい人が いると信じて



 水の中には 暗くうねる

 闇だけがあり

 逢いたい人は 見あたらなかった

 青年は 目を閉じ

 冷たい事実に 五感を封じた

 水の中ならば 涙がこぼれていることを

 自分自身で 気付かずに済むからだ



 このまま 意識を失って

 水底に沈めば

 君に逢えるかな











 1





 ふと目を覚ますと、視界の中に人がいた。漂う雰囲気が彼と似ていて、セイランは緊張して目を見開いた。同時に胸の苦しみを感じ、肺にある水を吐き出すために四つんばいになって激しく咳き込む。短い草が茂っている地面が、涙のフィルター越しにぼやけて見えた。何度も吐きそうになり、ようやく咳が落ちついた頃、近くで様子を見ていた人物は口を開いた。

「お前も、無茶をするものだな」

 声が、初めに思った人物とは違っていて――やはり彼に逢うことは出来ないのだ――背筋に悪寒を感じ、地面に着いている手を握りしめる。気管にある残りの水を咳で払ってからセイランはようやく身を起こし、地に尻を着いて男を見上げた。そこにいたのは、長い黒髪を重力のままに垂らしている、陰気な闇の守護聖だった。雰囲気が似ていると初めに思ったのは、この男が彼と同じ属性の人間だからなのだと、そう自分に言い聞かせた。
 口元を拭いつつ、冷静な目つきで見下ろしてくる男を睨む。

「なぜ、あなたがここにいるんです?」

 問いに、男は眼前に広がる湖を虚ろげに見つめた。

「……予感がした」
「予感?」
「他に理由はない」

 男の答えに、セイランは自嘲気味に笑った。そうですか、それはどうもと素っ気なく言い放ち、水を含んだ服を両手で乱暴に絞る。大量の水が地面にこぼれ落ち、じんわりと土に染み込んでいった。
 湖の周囲には、自分とクラヴィスしかいないようだった。もしかしたら他の守護聖たちも来ているかもしれないと思い、目線だけで周りを見回してみたが、他に人の気配は無かった。クラヴィスがわざわざ一人で来るのは意外だと感じつつも、他に現れるとしたら一体誰が姿を現すというのだという疑問もあった。ここは自分の所属している聖地では無いし、そもそも森の湖に人は滅多に訪れない。教官時代の記憶が蘇った。
 地面に後ろ手を着き、息を整えるために呼吸を繰り返す。自分の息と、鳥の鳴き声と、風に揺れる木々のさざめきが聞こえていた。隣にいる全身黒ずくめの男は微動だにせず、湖を眺めている。そういえば、自分を助けに湖に入ったというのなら、この男も濡れているはずだ。気になって横目で見ると、黒い髪の先から水が滴り落ちていた。今まで男が濡れていることに気が付かなかったのは、彼が黒い布の服を纏っており、湿っていることが分かりにくいからだろう。水を含んだ衣服が重たいせいで、彼はまだその場から動き出さないのかもしれない。
 滅多に自主的には行動しない男が、入水しかけた自分のために湖に飛び込むとは。自虐的な笑いと共に、急に涙が出て視界が歪んだ。周囲に生い茂る木々の色彩がぐにゃりと歪み、恐ろしくなってセイランはうつむいた。涙は予想以上に両目から溢れ、頬を伝って落ちていった。自分がしゃくり上げる情けない声も聞こえた。自己嫌悪と、近くにいる男に無様な姿を晒しているという羞恥で胸がいっぱいになった。
 しかし、隣にいるこの男は、誰が泣いていようと、いつもの冷静な様子で相手を見下ろしている。静かに、理知的に、下手すると残酷に、だが相手の感情を全て理解しながら。それはこの男の性質であり、能力だった。セイランが彼に対して持てなかった力を、男は持っている。
 セイランは、止まらない嗚咽の中、息を詰まらせながら吐き捨てた。

「あ、える、と」

 これは自分の弱さを見せることにしかならない。恐怖で両手に顔を伏せ、前髪を手でくしゃりと握り潰す。この男の前で、自分の脆弱さを露わにするのは悔しかった。しかし、今ここで吐き出さなければ、自分は壊れてしまうような気がして、どうにも止まらなかった。

「あえる、と……
 ここに、くれ、ば」

 泣き声混じりに出る自分の声は、惨めなほどうわずっている。

「ここに、来れば……逢いたい、人に……」

 本当は、こんなことを言ってしまいたくはない。これは自分の最後の砦だった。言ってはいけない、言ってしまえば、彼を心の底から必要としていることを認めなければならなくなる。奥に秘め続けていた究極の秘密だった。口に出せば自身にも他人にも弱い姿を晒すことになるだろう。だから言葉になどしたくなかった。我慢をしていた。
 ずっと、長い間、我慢をしていた。独りで茶を淹れていて空しいときも、窓際で記憶と対話しているときも、新たな闇の守護聖と上手く喋れないときも、彼がよく買ってきてくれた好きな菓子を意識的に避けるようになったときも、彼の苦手だった白い動物を見かけて頭を撫でてやっているときも、誰かの口から彼の名前が出てきて懐かしそうに喋っているのを聞いているときも。
 彼に逢えない。絶対に逢えない。
 彼は、ここにはいない。この世にはいない。いくら捜したとしても、宇宙のどこにもいない。存在していない。

「逢いたい人に、逢えるんじゃないのかよ……!」

 セイランは、自身の口にした苦しげな言葉に目眩がし、地面に崩れ落ちた。うずくまり、拳で何度も土を叩く。

「逢いたい人に逢わせろよ! 願いが叶うんじゃないのかよ、ここに来れば! ここに、来れば!」

 叫びに含まれていたものは、どこに向ければよいのか分からない、諦めにも似た怒りだった。
 相変わらず、聖地には穏やかな風が吹き、全ては彼がいたときと変わらない。全ては平穏だ。聖地にあるものは文句の付けようもないほどに清浄で美しく、何もかもが不変で永遠だった。彼がもうこの世には存在していないということと、魂を抜かれたも同然の青年の悲嘆だけが残されたということは、まるで空間から切り離された事実であるかのようだ。
 それが憎かった。

「……セイラン」

 クラヴィスの呼びかけにも、セイランは身を起こさなかった。地面に伏せ、泣き声を上げることで、途方もない悲しみを露わにしていた。その嗚咽は、自分でも哀れになってしまうほど痛々しかった。それは嘆きだった。全身からほとばしる苦悩だった。こんなにも激しい感情を眠らせていることが、今までよく出来ていたものだ。
 クラヴィスが、セイランの肩に手を置いた。

「私がお前を助けたのは、あの者が、私にお前を頼みたがっていたからだ」

 その言葉に、セイランはさほど驚かなかった。彼ならそう言い残すだろうと思っていたからだ。クラヴィスに返事も頷きもせず、泣き続けた。
 クラヴィスは後を続けた。

「お前の面倒を見ることが必要だというのならば、私は引き受けることも構わなかった。だが、お前がそれを望まぬだろう」
「それ、が……どうして、今になって」
「お前を先ほど助けたのは、予感がしたからとしか言いようがない。ここで、何かが起こるような気がしていた。私に予知能力でもあるのか、我々のサクリアが反応し合ったのか……なぜかは知れぬ。何より、守護聖がいなくなっては聖地も困惑するだろう。それ以前に守護聖が死ねるかどうか定かではないが」

 淡々と言うクラヴィスに激昂し、セイランは勢いよく身体を起こして、隣にしゃがみ込んでいる男の胸ぐらを掴んだ。体格差のせいで格好つかなかったが、衣服を握るセイランの両手は震え、形相はこれ以上無い憤怒に満ちていた。

「あなたは、それで平気なのか!」
「何がだ」
「生命が本来の生命の形を為さない、こんな場所にいて!」

 セイランの怒りに、クラヴィスは、冷静な様子で相手の両目を見つめ返す。

「ならば、かつての闇の守護聖が任期を終え、聖地から解放され、己が生命を全うしたことは、誉れではないというのか?」

 言い返され、セイランは思わず口を噤んだ。冷たくも見える紫水晶の瞳で見つめられることに耐えきれず、視線を外す。

「……」
「お前はエゴで自身の感情をもてあましているだけだ」

 嘆息し、胸元からセイランの手を剥がすと、クラヴィスは立ち上がって再び湖を見つめた。平静な態度の男を見上げ、行き場を失った手を握りしめて、セイランは強く唇を噛む。

「……こういった感情を自覚するからこそ、僕は、僕がまだ人間であることを思い出すんです。エゴは、生命ならば誰もが抱くものだ」

 口から出たものは反論だったが、セイランの語調は弱かった。案の定、遮るようにクラヴィスが口を開く。

「そんなものは言い訳だ。
 そもそも私は、お前が何をどう思おうと興味がない。お前が守護聖の任を放り出そうが、何を悲しもうが、何を憎もうが、自ら死のうが、私には関係がない。私は元来、関心のないものに対しては冷たいからな」

 それは単調な口調だった。いつまで経っても荒ぶることのない男に少しの恐怖を覚えて、セイランは無意識に身を縮めた。これ以上自分が何を言おうと、この男の姿勢は一切変わらないのだろう。その絶対的な不動は、感情の起伏が激しいセイランにとって得体の知れないものだった。

「お前は愛しいもの、大切なものを失い、悲しい、苦しいと嘆いている。だが、それらは全て、お前の主観からくる感情だ。あの者が、お前と同じようにお前を愛しいと、大切だと感じていたのか? お前たちの互いを想う重さは等しかったか? 愛しいだの大切だのという想いは、お前が一方的に抱き、相手に押しつけたものだ。愛しいものを失って悲しむことはエゴであり、その悲しみは相手に向けるべきものではない」
「……」

 闇を司る男の容赦ない真実の刃が心に突き刺さり、息を震わせる。奥歯を噛んで、隙があれば男に何か言い返してやろうと思っていたが、やはり出来なかった。言い返すための言葉も勇気も、セイランには無かった。
 クラヴィスは冷ややかに告げた。

「お前は、あの男を理解していなかったのだ」
「……分かってる!」

 青ざめ、セイランは叫ぶ。

「そんなの分かってる! 僕は、彼を理解していなかった……何も理解させてくれなかった。それは、彼にとって、僕にその価値が無いからだ。僕は彼に、最後まで信頼されることがなかった。
 なら、その悲しみは……」

 自分の言い放つ一言一言に涙が流れてきて、手のひらで乱暴に頬を拭った。一度堰が外れてしまうと駄目だった。心の奥にある感情が噴火のように爆発するのだ。
 そういえば、いつもそうだった。荒れ狂う感情を、セイランはしばしば爆発させていた。気まぐれで気難しい人間だと周囲から判断される所以はそれだった。彼の前では特に、その神経質な行動が顕著だった。ためらいもなく悲しみや怒りを放出していたのは、彼が、それらを真摯に受け止めてくれる人間だったからだ。もちろん、彼にとっては医療の一端であり、ごく手慣れた対処の仕方だったのだろう。セイランの激怒や悲嘆の重大さに比べ、彼の受容など些細なものだったのかもしれない。しかし、だからこそ、セイランは、相手に自身の感情を任せることが出来た。そのことに安心感さえ覚えていた。彼は、セイランの激しい感情を否定をしなかった。それもまた君の一部であると、静かに諭してくれた。周りからなんと言われようと、それがセイランそのものであり、決して間違った在り方ではないのだと。

(なんで……いなくなっちゃったんだよ)

 泣きながら空を仰ぐ。

「僕が大事な人にいつまでも信頼されなかった悲しみは、無力な自分を責め続ける悲しみは、一体どこに向ければいいの……!」

 人の前で声を上げて泣くことが出来るようになったのは、今や深い眠りに就いた彼のおかげだった。
 黙って青年の泣き声を聞いていた闇の守護聖は、静かに言った。

「その後悔という苦痛は、償いたい相手が消えてしまえば、もうどこにも行くことが出来ない」

 その気の遠くなるような真実に、セイランは、強い目眩を覚える。