ランドリーに聞いた抜け道があった。ランドリーの仕えている屋敷のバラ園から入り、茂みを抜けた後、瓦礫の重なる壊れた塀を登ってミレイユの屋敷の裏手に出る方法だった。他人の屋敷に勝手に足を踏み入れ、土と葉っぱまみれになるなど初めてだったが、なんとか屋敷の裏へ辿り着くと、あまり整えられていない庭が広がった。ミレイユ一人に屋敷の管理を任されているのだ、こんな場所まで世話をする余裕などないのだろう。
 屋敷はそれほど新しくはなく、白い外壁は年季が入りくすんでいた。二階の窓を見上げると、私の到着を待っていたらしいミレイユが顔を覗かせ、慌てた様子でその場から去るのが見えた。
 しばらくして、ミレイユが息を切らして下まで降りてきた。彼女は白い簡素なドレスを着て、灰色の小さな靴を履いていた。私が体調を訊くと、今急いで降りてきたことで動悸がしますと冗談めいた口調で言った。長年、人と接していないのに、口が達者なことに私は驚いた。
 薬を処方されているが、使用頻度は多くないらしい。父親が引っぱたいたり鞭で打ったりしてきた日に精神が不安定になって服用する程度ということだった。顔色は悪くないし、身体つきも痩せてはいるが栄養失調とまではいかない。食事には不自由していないようだった。
 無理矢理訪ねてきた私の存在と、いつ義父が帰ってくるか分からないという緊張のせいか、庭の古ぼけたベンチに座って彼女は何度も溜息をついていた。こわばった面持ちを横目に、安心しなさいと頭を撫でてやると、彼女は驚いたように私を見上げ、誰かに撫でてもらったことなど幼少時代以来無かったと微笑んだ。柔らかく、優しい笑顔だった。どうしてこの女性が義父から暴力を振るわれなければならないのかと疑問に思うほど、それは美しい笑顔だった。
 ミレイユの様子を目で見て知ることが出来たことは大きかった。病気の診断は文字だけでは不可能だ。これからも何度か会いに来ると申し出ると、彼女は複雑そうな顔をした。義父が警察であるという意味が分かっていないのかと咎められた。しかし私は患者を放っておくことなど出来ないと言い返した。私が医者になった経緯を手短に話すと、彼女は興味深そうに聞いていた。それは初めて聞く外の世界だという様子だった。本や新聞、義父の話から世間を学んだとは言っていたが、それは所詮、義父から与えられた狭い世界に過ぎない。人間とは本来、一つの場所で、たった一人の人間と関わることしかしない存在ではないのだ。医者になるまでに仲間が出来たことで、人と協力し合うということを知った私自身の経験から出る言葉だった。彼女は私の言い分に沈黙し、それでも自分の世界は今ここにしか無いと暗い声で呟いた。何年も義父の屋敷にいて、それが当たり前になってしまい、今更変えることなど不可能であると。彼女の頑なな考えに対し、そんなことはないと私は反論した。私は義父から君を救いたいのだと。君を待つ世界は他にもたくさんあるのだからと。
 彼女は私の言葉に対し、何も言わなかった。

 私は極力周囲に気をつけながら、ミレイユとの手紙のやりとりや忍び込みで、彼女の様子を見守っていた。暴力を日常的に受けているわりには、慣れのせいかあまり病的には見えなかった。しかし彼女が義父のエゴによって一つの世界に縛られていることは我慢ならなかったし、暴力がエスカレートしてミレイユの命が失われるような事態は絶対に避けなければならない。今も暴力を振るわれ続けているというのなら、本当はすぐにでも連れ出したかったのだが、私の背後に仲間たちがいる今、警察である義父の存在はやはり恐ろしかった。