姿を隠しながら診療所まで戻ると、午後の診療を終える時刻になっており、受付嬢にこっぴどく叱られた。先生がいなくなったせいで午後は全て休診にせざるを得なかったのですよ、と。
 未だ覚束ない心地だったが、あくまで冷静な様子で受付嬢を落ちつかせ、ランドリーはどうなったかを尋ねた。彼は、やはり助からなかった。彼の遺体は診療所内に安置されていたため、ランドリー死亡の知らせを受けて駆けつけた屋敷の人間とランドリーの遺体に面会してから、仕事場にいる仲間たちに謝って回った。私の所にも緊急の患者がいたせいで心配になり、あの事故の現場を離れざるを得なかったのだ、と。
 受付嬢を帰らせ、私は診療所で待った。受付嬢の口から警察の話は一言も出なかった。だが、いずれは来るだろう。
 なぜランドリーは殺されなければならなかったのか? おそらく彼は隣人として調査された際に、ミレイユの逃亡先に関して嘘の情報を流したのだろう。そして、嘘がばれて、私たちに知らせようと診療所に向かっているとき事故死に見せかけて殺された。警察がやったことだ、私や診療所の仲間がどんなに訴え出ても事故で片づけられてしまう。
 深夜になり、診察室の机の前にじっと座っていたとき、通りに面している診療所の扉のベルの音がした。席を立ち、下まで降りて呼び出しに応えた。決して自分からは手を出さないと思いつつも、懐にナイフを隠し持って。
 何気ない様子で戸を開ける。そこには男が立っていた。くすんだ緑色のコートを着た、頬がこけている神経質そうな中年の男だった。彼は警察のバッジを見せると、早速私に尋ねた。
「ミレイユという女性がここにいたという情報を得た」
 その言葉に、私は演技を始めた。
 ええ、それは事実です。ある日突然、傷だらけになった彼女が診療所に飛び込んできたところを保護しました。彼女は詳しい事情を話してくれなかったので、身元などは分かりかねるのですが、今日になって診療所を飛び出してしまい、午後のあいだ探し回っていました。しかし見つかりませんでした。彼女は今どこにいるのですか。
 すると、男は眉をひそめて私に言った。お前はミレイユと何らかの関係を持っていたのか、と。
 それは恋仲にあったかどうかを訊きたいということだろう。私は首を横に振った。なんの話ですか、単に私はあの女性を保護しただけです。喋りはしますが肝心なことは何も話してくれずに困っていたところだったのです。
 男は無言で私の話を聞いていたが、ふと懐から一通の手紙を出すと、このメモの筆跡と私の筆跡を比べさせてくれと言ってきた。私は快く承諾した。私は前もって特定される危険を避けるために、筆跡を故意に変えていたのだ。男は怪訝そうに比べていたが、じきに持ってきたメモ書きを仕舞い、淡々と言った。
「まあ、いい。
 お前がミレイユのなんであろうと、私には関係の無いことだ。
 お前が私とミレイユの関係を知らなければよい。知られてしまえば、こちらもそれ相応の手段を取ることになる。
 ただ単にそれだけの話だ」
 男の言葉に、瞬く間に頭に血が上った。懐に手を置きかけたが、残っていた理性で必死に抑えつけた。やっとの思いで「それは物騒なお話ですね」と返すと、男は鼻で笑った。男が帰った後、私は部屋に戻り、近くにあった花瓶を床に叩きつけた。色とりどりの花が散乱し、陶器の鋭い破片がそこら中に散らばった。
 私は懐のナイフを投げ捨て、床に崩れ落ちて泣きじゃくった。悔しさと悲嘆で気がおかしくなりそうだった。泣きながら笑ったり、怒ったりして手元に落ちている花を握り潰していた。何度も床を引っ掻いたせいで、両手の指先からは血が出ていた。その指で顔を覆うものだから、私の顔は血まみれだった。
 ああ、ああ、神よ、お前など!
 なんの罪もない人間を殺すことが、なぜ必要であろうか!
 私は、自分自身を激しく憎んだ。彼女を救えなかった自分を、隣人を巻き込んでしまった自分を深く憎悪した。どうしてランドリーまで死なせてしまったのだろう、どうしてあのとき私は彼女の部屋の鍵を開けていたのだろう。彼女のことを無理にでも縛り付けておけば良かったのというのか? 義父が彼女にしたのと同じ方法で!
 私は嘘をついたのだ。何よりの怒りはそれだった。ミレイユ以外の私の大切な者たちを守るために、私は嘘をついた。家族を、仲間たちを、患者たちを守るために、私は愛する人を秤にかけ、結局はその他大勢を選んだのだ。自身の娘に対する暴力が外部に漏れることを警戒していたあの男に、ミレイユとお前の暴力を介する関係になど関与しないと嘘をつかなければ、この診療所は潰されてしまう。仲間たちの家族が、私の家族が、患者たちが途方に暮れてしまう。だから、これは仕方のないことなのだ、ミレイユ、君ならば仕方のないことだと言うのだろう――君は、私を許すのだろう!
「ミレイユ!」
 叫び、懺悔する。
「申し訳がない、ミレイユ、愛している、愛している、本当に愛していたんだ……!」
 泣きながら嘆いたところで、私の罪が消えることなど決して無いけれど。

 私はこの先、ミレイユ以外を愛すことは無いのだろう。
 永遠に私の罪を忘れないために。
 自分を罰し続けるために。