それから数日後、診療所の近くで事故があった。昼休みの間に起こった出来事で、私は慌てて外に出て仲間たちと救助に向かった。誰かが街路で勢いよく走っていた馬車にはねられたという。
私は馬車に轢かれた人間を見て正気を失いかけた。横たわっていたのは、私とミレイユの手紙のやりとりを助け、私に彼女に会う手立てを教えてくれたランドリーだった。
血まみれになった老人は、私の姿に気付くと息も絶え絶えに掠れた声を出した。喋るなと静止したが、ランドリーはそれが自分の使命であるかように言葉を続けた。
「ミレイユさんを逃がしてください」
一瞬にして血の気が引いた。
ミレイユのいる場所が義父にばれたのだ。ランドリーは、この事故は意図的なものであると私に伝え、意識を失った。何が起きたか分からない仲間たちは、動揺しながらも彼の蘇生をし始めた。私も彼らと共に必死に手当てをしたが、次第に皆の落胆が見え始めたとき、はっと戦慄して診療所へと戻った。走り、走り、彼女を保護している部屋を見たときにはもう、彼女はベッドの上にいなかった。昼休みだからと部屋の鍵を開けていたのが原因だった。
行き先は分かっていた。義父の家だ。彼女は事故の現場を窓から覗きでもしたのだろう、そして自身の存在に罪を感じて義父の元へと戻ろうとしているのだ。
それは許さない、それだけは決して許さない。地面を蹴り、彼女の屋敷へと走った。私自身はもうどうなっても良かった。義父が憎むべきは娘をそそのかした男なのだからミレイユには関係がない。あれほど無垢で優しいミレイユがこれ以上暴力を振るわれることなどあってはならない。
ミレイユの屋敷の前に着き、正面から入ろうとしたが、門の錠が閉まっていた。急いで普段使っていた抜け道を通って庭の方に行き、私が来るとき彼女がよく窓から顔を覗かせている二階の部屋まで駆け上った。そして彼女の部屋のドアを開けて、私は、足を止めた。
分かっていた。
こうなることは分かっていたのだ。
彼女がいなくなれば、全てが元に戻るということを。
私の心が失うものは途方もないけれど、私以外にとっては最も失われるものが少ない方法なのだと。
呆然と佇み、天井から首を吊っている彼女を眺めているうちに、激しい感情が自分の中から湧き上がった。それは己への嫌悪感と、彼女の義父、大切な命を奪った元凶である男に対する痛烈な憎悪だった。
私は震えながら、虚ろな目で宙を見つめている亡骸に向かって呟いた。
どうして私は君を救えなかった?
亡骸を天井から下ろし、間に合うならば蘇生を施そうと必死にその手がかりを探したが、見つからなかった。
彼女の身体は空っぽだった。
現実を突きつけられた瞬間、意識は遠のき、曖昧になった。気が付くと、普段から口ずさんでいた名も知らない歌を彼女に聞かせたり、空想の中に甦る彼女の言葉に対して一人で返事をしたりしていた。
どのくらいか分からない時間、幻想の中の彼女と訳の分からない会話をしていた。
だが、その会話にも徐々にノイズが入り、私はいつの間に憤怒の渦の中に佇んでいた。
男を殺したい。
彼女を追い詰めた忌まわしき男を。
彼女が首を吊って苦しんだように、肺にナイフを突き刺して殺すのだ。
彼女が長年受けてきた暴力以上の苦しみを与え、めちゃくちゃに切り刻んで殺すのだ。
そう呪いながら、冷たくなった身体を強く抱きしめたとき、不意に、朧気な声がした。
ドクター
それは、彼女が私を呼ぶときに使う呼び名だった。
ドクターフランシス
あなたは私の誇りだわ
今まで私の空想の中にいた彼女の声よりも、ずっと鮮明にそれらの台詞は思い出された。
普段、義父への憎しみを押し止めていたとき繰り返し胸中で唱えていた、彼女の言葉。
あなたは、カルテの数だけ人を救えるの
どうか、たくさんの人を守ってあげて
「……………………ミレイユ」
憎悪の闇が、清純で神聖な光に覆われる。
私は悲しくて泣いた。
すぐ近くにある、抱きしめた彼女の眠る顔が、そのときになって初めて鮮明に見えた。
ああ、ミレイユ。
私は、どちらを選べばいいんだい。
これから私は誰に救われるというんだい。
私はつらいよ。
君のいない世界で生きるのはつらい。
けれど、私には、他の守るべき大勢の者たちがいるんだね。
彼女の亡骸を床に横たえ――首を吊った彼女が、重さで縄が耐えきれずに床に落ちてしまったという状態を作り上げてから――私は立ち上がった。
あれからどのくらいの時間が経ったのかは知れないが、私は戻らねばならなかった。彼女の義父が来る前に。
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