「フランシス!」

 玄関から出て門へと向かう男を呼び止め、彼が振り返った瞬間、セイランは窓からそれを投げた。片腕にジャケットをかけていたフランシスは反射的にそれを受け取ろうとして、ジャケットを地面に落としてしまったが、幸い投げられたものは両手の中に納まる。
 フランシスは手に落ちたそれをひっくり返して確認し、セイランを見上げた。

「私のだ」

 いつも静かに喋る男が、二階にいる邸の主に届くように、少し声を張り上げているのが可笑しかった。

「その本、前回来た時に置いてっただろう。届けるの忘れていて、今日も渡しそびれるところだった」
「ありがとう。私もすっかり忘れていたよ」

 腰をかがめてジャケットを拾い、何度か手でほこりを払うと、彼は本を持っている方の手を掲げて帰る合図をした。踵を返そうとしたとき、セイランは再びフランシスを引き止めた。

「文学を読みなよ」

 フランシスが再度こちらに振り返るのに安堵しつつ、出窓の枠に身体を預けて続ける。

「そんな本でなく」
「私は医者だよ。こういう本しか読まない」
「心理学や思想? たとえそこに描かれているものが真実だとしても、それは筆者が書いたときの真実であって、いずれ描きかえられてしまうものかもしれないじゃない」

 文学は架空の物語であっても、それが筆者の内にある真実であることには変わりない。そして、その真実は何者にも捻じ曲げられない。セイランの言葉に、サイコテラピストは薄く苦笑を浮かべ、肩をすくめてみせた。

「我々医者はいつでも、その瞬間の、現実の真実を見なければならないんだ。もちろん文学が役に立たないと言っているわけではないよ。けれど私は君ほど文学を楽しめる人間ではないと思う」
「僕は思想書が苦手なんだ。君ほど寛大じゃないから、書き手の考えを押し付けられているような気分になる。不快だよ」
「私には君ほど想像力がないから、この手の本には助けられているけどね」

 本を再び軽く掲げ、そろそろ帰るよとフランシスは言った。セイランは窓から外側に落ちないよう注意しながら身を乗り出して、声を張り上げた。

「僕が書いた作品に興味はある?」

 ほとんど背中を向けていたフランシスは三度身体をひねらせ、セイランを肩ごしに見ながら、歩みは止めなかった。

「君の? ぜひ読みたいね」
「まだ書いてないけど、僕たちをモデルにして本にしたら、けっこう面白いものができると思うんだ。自由気ままな青年と、その青年に付き合うサイコテラピスト」
「君の中にある君だけの真実を覗き見ることができるわけか。興味深いね」

 セイランが頷くのを確認し、フランシスは今度こそ邸の鉄の門の鈍い音を立てて帰っていった。夕暮れの、花咲く植物のゲートをくぐり抜けていった客人の背中が見えなくなる頃、セイランは窓を閉め、その出窓に腰かけて小さな溜息をついた。

「書けるのは僕の真実だけさ。君について語るときは、想像するしかない」

 きっとできあがるのは落ちのない話だろう。書き上げる前に、あの暗がりの中に生きる男が己の真の姿をセイランの前にさらしてくれるとは、到底思えなかった。