絵さえ描ければ良かった。
 本来はそういう人間だった。
 彼が居なくなっても、またその時の自分に戻るだけ。
 たったそれだけのこと。





(けれど、僕は知ってしまったんだ。
 独りよりも二人の時が幸せだということを。
 僕の創り出したものを見て喜んでくれる人がいる楽しさを。
 僕の話を聞いて理解してくれる人がいることの嬉しさを。
 きっと今まで出会った誰よりも君は僕のことを分かってくれた。
 なのにどうして?)

 叫び、耐え、ようやく見つけたのに、また。

(独りになる)

 心が、切り裂かれるように痛む。

「フランシス」

 頭の後ろで手を組んで枕をつくり、流れる雲と、その合間を埋める青色を眺めて、切り開かれた傷口から血を流す心に耐えながら、セイランは尋ねた。

「君の、これまでの人生は幸せだったかい?」

 かろうじてはっきりした声で彼に語りかけるが、自分が口にする一つ一つの言葉にセイランは傷ついていた。草むらに伸ばしている脚に力が入らず、ふわふわと身体が宙に浮いているような、夢を見ているような感じがする。心だけでなく身体すら、これが現実ではないと信じたいのかもしれない。
 セイランの問いに、フランシスは低くうなった後、

「どうかな……」

 と、曖昧に小さく呟いた。

「君は、私になんて答えて欲しい?」

 問い返され、セイランは眉をひそめる。

「問いに問いで返さないでくれる……」
「うん。でも、私は自分が幸せだったかどうかなんて分からないから。自分が幸せか不幸か分からないというのは、愚かなことかな?」
「違う。僕が訊きたいのはそういうことではなくて……そうではなくて……ただ……」

 身体がざわざわとし、眩暈を覚え始め、瞼を閉じる。明るい闇の中で、セイランは必死に言葉を探し求めた。

「ただ……君は聖地で……僕と一緒にいて、楽しかったか……そう。
 君は、僕と一緒にいて楽しかったか。そう訊きたいんだ」 

 ゆっくりと目を開け、隣に座っているフランシスの横顔を見た。彼は、前方に広がる景色を眺めて、微笑している。

「楽しかったよ」 

 その答えは、淡々と放たれた。嘘なのか本当なのか分からず、セイランはフランシスの顔を見つめて言葉の真偽を探っていたが、やはり謎めいた男の仮面からは何も分からなかった。青い瞳が広大な緑を映しているだけで、表情は普段と変わらない。穏やかで、いつまでも、永遠のように悲しげな笑みを浮かべたまま。
 もういいのだ。
 もういいのだと、セイランは自分に言い聞かせた。何が嘘か本当かなど、フランシスが自ら教える気がない限り、セイランには永遠に分からないのだから。いや、もし本当のことを言われたとしても、またその言葉すら疑う羽目になるのだろう。フランシスは、他人にそう思われる生き方を選んでいる。ある意味、相手に自身の真偽を任せているのだ。
 ならば、良いではないか、自分本位で考えれば。楽しかったという言葉を信じれば、それで。たとえ、それが嘘だとしても。

「…………そう」

 泣きそうになりながら、セイランは頷いた。

「僕も、楽しかったよ」

 か細い声で言うと、フランシスは笑みを深めた。それは嬉しそうにもつらそうにも見える、不思議な笑顔だった。





「セイラン。
 もし私の人生が気になるのなら、星に遊びに来るといいよ」

 もう行かなくてはと、フランシスはセイランの顔を覗き込みながら言った。

「その時、私は、だいぶ年を取っているかもしれないけれど」
「……」

 セイランはフランシスをじっと見つめ返し、

「……それって、ありえないくらい、切ないことだろ」

 怒りを込めて呟くと、フランシスは「そうかもしれない」と目を伏せて返した。

「なら、君に任せるよ」
「君はおじいさんになっているのに、僕は若いの? 気味が悪い、そんなの。気持ち悪いよ」
「そうだね」
「……おかしいよ」

 耐えきれなくなり、セイランは顔をくしゃりと歪ませた。乱暴に起きあがって、葉のついた髪の毛も梳かさず、フランシスの胸をどんと拳で叩く。

「おかしいよ……気持ち悪いよ、こんなの!」

 かなり強い力で殴ったはずだが、フランシスは何も言わなかった。黙っているのをいいことに、セイランは堰を切った言葉を一気に口に出した。

「こんなの、こんなのあんまりだ。聖地のシステムがどうとか使命がどうとかじゃない、君と僕が出会って、こんなことになっているのが僕は許せない。最初から出会わなければよかったのかよっ、どうすればよかったんだ。同じじゃないか、僕も、君も、ここにいて力を使って、宇宙を育てて、やってることは。なんで同じ運命を背負ってるのに、ほとんど年なんか取らない存在だったのに、命に差があるんだよ!」
「……」
「……いや、みんなそうだ。命に差があるのは……それは知ってる。君も、分かってた、みんな分かってた。君の力がたぶん早めに無くなるだろうってことは……僕たちが同じ存在だから、同じ力を使うからなんとなく分かるんだ。じゃあ、どうして僕と君は一緒にいたんだ。
 違う、僕が……僕が、馬鹿だったんだ、こうなるって分かってたのに……分かってたのに、一緒にいて、ますます孤独になるって知ってたのに……!」

 フランシスは、冷静な様子でセイランを見下ろしているだけだった。冷たくはないが、温かくもない冷静な瞳で。

「こんなの……!」
「セイラン」

 頬に伝った涙を、フランシスが親指で拭ってくる。セイランは両手で彼のシャツをぐっと掴み、深くうなだれた。

「くそっ……!」
「私たちは、生命として、当然ありうる運命の中にいるんだ。そして、その生命はみんな孤独なんだ。
 君は、私といても、仮に私がいなかったとしても、孤独だよ。君が抱いている感情は、孤独が云々というよりも、単に寂しいという感情にすぎない。君も私も、元より独りなのだから。
 君は芸術家だから、孤独の意味を余計に知ってしまっている。だから、つらいのだろう」

 降ってくる言葉は低く、暗く、冷たい調子だったが、何かを憂うようだった。

「君は聡明な子だから、この先の自分自身の未来を悟っているんだね。人の賢さは才だが、時に残酷さをもたらすものでもある」
「……僕には自信がないんだ」

 しょっぱい涙が口に流れ込んでくるのを感じながら、せめて言葉を喋れるくらいには耐えなければと、胸元をおさえて必死に声を出す。

「僕は一度、孤独の寂しさから逃れることを知ってしまった。だから、この先、ここで、君がいないことを感じながら生きるのは、つらい……」
「……」
「……耐えきれるか……」

 フランシスの居ない、空っぽの執務室や宮殿を想像して、涙がぼろぼろと下にこぼれ落ちた。向かいの席が空いているテーブル、使わないティーカップ、ぼんやりと時が過ぎるのを待っている自分。抜け殻になっている様を容易に想像出来てしまう。

「毎日、毎日、毎日……君とお茶したいなあ、芸術の話をしたいなあと思いながら、僕は生きるの? キリエヴィルにいる君に会いに行きたい、喋りたいと思っていても、僕は、そう簡単に聖地から出られない。そのうえ、君は会うたびに年を取っている。
 恐ろしいよ、そんなの、駄目だよ、想像したら……僕は……」
「想う人がいなくなるのは悲しいことだよ」

 痛烈な言葉を紡ぐ、ひどく穏やかな声が降り注ぐ。この男は痛みを知っているのだと、セイランはそのとき悟った。それが何なのか問おうとして見上げたセイランを、フランシスは微笑むことで制した。

「君にこんなにも気に入られた私は、幸せ者だったね。
 でも、私はもう行かなくてはならない」

 「さよなら」と、フランシスは静かに言った。