涙の風景の中に、セイランの記憶が甦る。
以前、彼はセイランに問うたことがある。
それがいつ頃かは覚えていない。だが、セイランが自邸の白いソファに寝そべり、フランシスが揺り椅子に座って本を読んでいる、休日の明るい小雨の昼だった時のように思う。
二人は黙って時が過ぎるのを待っていた。セイランは、雨の滴の伝う窓を見つめぼんやりと物思いにふけりながら、フランシスは、今読み進めている本の最後の行を読むために。会話できる距離に誰かがいるのに、まるで互いがいないように沈黙の時を過ごすことが、二人は嫌いではなかった。それは自分たち二人だからこそできたことだった。
雨の、窓のキャンバスに作り出す流線が、何かの形を示したように見えたとき、セイランは彼に問うた。
「持論ってある?」
それは、何か考えていて発した言葉ではなく、なんとなくフランシスに話しかけてみたくて口から出た、セイランにとっては特に意味のない質問だった。彼は、読書をしている最中であっても、邪魔されることに対し文句を言う男ではなかったので、少し沈黙してから答えた。
「持論か……」
セイランの位置からはフランシスの姿が見えなかったので、果たして彼が顔を上げて問いに答えているのか、それとも本のページに目を落としたまま答えているのかは分からなかった。
「まあ、仕事柄、なくはないかな」
気取ったような口調でフランシスは言った。まあそうだよね、と、当然のような受け答えをしてから、セイランはそれがどんな持論であるかを問うた。しかしフランシスが「持論っていっても範囲が広すぎる」と不満を言ったため、
「じゃ、人間の生においてこれだという持論」
という、一般的には小難しそうなテーマを投げかけてやった。今の問いは、自分たちにとっては特に難解でもなんでもないはずだと、セイランは、二人が二人であることに満足する。
背もたれに身を預けたのか、フランシスの座る揺り椅子が床と擦れ合う鈍い音が聞した。んー、という低い唸り声が聞こえた後、彼は、その持論の根拠や背景の説明無しに、突然回答した。
「“幸福は愚かさを生み、不幸は賢明さを生む”」
低く、静かに放たれた言葉に、セイランはむっくりとソファから起きあがり、彼に振り返った。眼鏡をかけているフランシスの目線は、依然、哲学書のような分厚い本に向いているままである。
「案外、ありきたりだね」
セイランが、文句というよりは驚きだといったふうに言うと、フランシスはページをめくりながら「そうだね」と無関心そうに呟いた。
「まあ、個々人の主観を伴うから、とても難しい命題だけどね……」
「それは、君が色んな人を診てきて気が付いたことなのかい?」
「そうだねえ……」
セイランの問いを聞いているのか聞いていないのか曖昧な口調で、彼は本を読みながら答える。もともと真剣に発した質問ではないし、別に真剣に答えて欲しいわけではなかったので、セイランは再びソファに寝転がった。
「ありきたりさのなかに、真実ってあるんだよな……」
しみじみと、窓の向こうの白く霞んだ景色を見つめて、セイランは独りごちる。フランシスには、もう何も答える気配がなかった。哲学の世界にどっぷりと浸っているのか、あるいは集中しないと文面を理解できないのか、どちらかだろう。
だんだんと眠気が襲ってきて、セイランは目を閉じた。ぼうっとする思考の中、遠くなる意識のどこかで、考える。
きっと、自分にも、いつか自分が不幸だと思う時が来る。
そのとき、自分は、己が幸福だったときの愚かさに気付くのだろう。
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