セイランは宮殿から遠ざかり、聖地の中を走り続けた。退屈な宮殿から抜け出すときに使う、木々が生い茂って見えづらいセイランの秘密の道だった。だが、今のセイランにはどこを走っているのか分からず、もはや習慣でその方向に向かって脚が動いていた。

(君は、結局)

 考え始めれば、涙が出てくると分かっていた。

(結局、僕に頼ってくれたことなんて一度も無かった)

 目元に熱さを感じ、奥歯を噛む。これ以上考えれば、自分は泣き始めてしまう。あんな男のために泣く必要など無いのだ。余計な思考を追い払うために、かぶりを振る。
 前を向いた。見慣れた道が、どんどん後方へ流れていく。花の咲く小道を走り、道無き茂みの中を走り、日があまり当たらないせいでぬかるんだ土を踏みしめる。原っぱを過ぎ去り、斜面になっている草むらの上を息を切らして走る。一度転びそうになって地面に両手を着き、再び姿勢を持ち直して、足を踏ん張り勢いをつけて丘を登る。晴れた日によく訪れていた、彼の裏庭、あの眼下に見える緑のグラデーションが美しい丘の上へ。
 そして、見えるのだ、彼の後ろ姿が。夜色の髪を持つ、すらりと立つ美しい男性の姿が。

「――フランシス!!」

 セイランは後ろ姿に向かって突進した。みるみるうちに黒いシャツを着た背中が迫り、ドンと両手で突き飛ばした。バランスを崩し、フランシスは勢いよく前に倒れた。地面に手と膝をついて、いたた……と呟いている。
 彼のしゃがみ込んだ姿を後ろから見下ろし、セイランは声を張り上げた。

「僕が、どれだけ悲しいか分かってる!?」

 それは、広がる森にこだまする声量だった。

「僕が、どれだけ君に裏切られてきたか!」

 涙が伝ってくるのは分かっていたが、もはや構わなかった。

「君は結局、最後まで僕を独りきりにさせておくんだ。これから先も、僕は、僕だけは、馬鹿みたく長い時間を生きなきゃならないんだよ!」

 どうせここを抜け出してもすぐに見つかって捕まるんだと地団駄を踏む。

「君はいいよ、守護聖でなくなったんだから! 僕だってこんな力、さっさと消えちまえばどんなにいいか……!」

 見つめる先のフランシスは地面に座り込んだまま、こちらを振り向きもしなかった。そうしてくれる方が今のセイランには都合が良かった。
 それに甘んじ、責め立てるように言葉を継ぐ。

「僕だって、早くここを出たいんだよ……! ここから君がいなくなったら」

 行かないでと素直に言えばいいのに。
 心の中に別の自分の声が響く。

「いなく、なったら……」

 力を失い、ずるずるとその場に座り込んで、すぐ傍にあるフランシスの黒いシャツの背に右腕を伸ばした。やたら手が震えていて、セイランは泣きながら苦笑してしまった。手が届くと、ぎゅうとシャツを握りしめた。背にセイランの力を感じているのだろうが、彼は何も言わずに後ろ姿を向けているだけだった。
 二人の間には沈黙があり、周囲には、鳥の声と、セイランが微かにしゃくり上げる声だけが聞こえていた。暇をもてあまし、二人が意味もなく訪れる時のように、穏やかな風の吹く優しい晴れの日の丘の、見慣れた景色ばかりが周囲に広がっていた。聖地の陽射しはいつでも柔らかく、ほのかで、宇宙の惑星に住む人々が見知ったとしたら、まるで天国にいるような心地になるだろう。毎日毎日、聖地に生きる者は、そんな楽園のような環境の中で過ごしていた。それはいっそ愚かで滑稽な光景だった。
 心が今にも死に絶えそうな、その愚かさと滑稽さの中を、セイランは、フランシスが共にいたからこそ過ごしてこられたのだった。彼が来る前の、神同然に自分の君臨している聖地は制約が多く、退屈でどうしようもなく、同じ趣味や同じ嗜好、同じ考え方を持つ人間は皆無に等しかった。もちろん話の合う住人はいたが、セイランという人間そのものを理解し、包み込んでくれる者はいなかった。自由な心で芸術の中に身を置き、独自の思想を展開する男という存在を認めはしたものの、その行為自体を見守ってくれる者はいなかった。あなたの勝手だし、好きにすれば、と放任される。もちろんセイラン自身もそれを望んではいたのだが、実際には、自分の価値を認め、更に傍らで見守る存在がいなければ、セイランには生きる意味など無かったのかもしれなかった。芸術は評価無しでは価値を得られない。人は、他人無しでは生きられないように。それなのに、自分は孤独も同然なのに、死ねないのだという。死んではいけない存在だから、ほぼ不老不死に等しい時間を与えられているという。命短き存在だからこそ自らの価値があると思っていたセイランには、それはとても恐ろしいことだった。
 このまま、不変なる楽園で永遠にも近い時間を過ごさなければならないのかと絶望していたところに、彼は、とうとうやって来たのだった。セイランの人生を豊かにしてくれそうな、気まぐれな性格ゆえに周囲から遠巻きにされがちな自分をおおらかに見守っていてくれる、包容力のある人間が。

「…………フランシス」

 彼が来たその日から、聖地におけるセイランの生は意義あるものとなったのだろう。フランシスは、趣味や考え方に共通した部分を持ち合わせているものの、他人に干渉せず、つかず離れずの距離を保ってくれる居心地の良い存在だった。次第に、二人の不思議な距離感の中、セイランに、この男性の秘密を少しでもいいから解き明かしてみたいという気持ちが湧き起こった。それは親しくなると人が抱く、自然な願望だった。いろんな角度からそっとアプローチをしてみたが、いつまでも真意を見せない男に対し、セイランはだんだんと真剣になり始め、より共にいる時間が長くなるにつれて、自分に対しても本当の顔を見せないことに苛立ちを覚えるようになった。もともと他人に干渉されるのが嫌いなセイランは、自分もまた他人に干渉することをしなかったが、この男に関してだけは友人としての執着心が芽生えているのを感じていた。
 だからといって、セイランは、フランシスに対して何も強要はしなかった。相手が領域に入れてくれない憤りが態度に出ることもあったが、フランシスの心を無理に暴こうなどという気は起きなかった。そうすることは怖いことであったし、いつかは彼から本心を見せてくれるのだろうと思っていた。彼が自ら心を開き、セイランに本当の姿を打ち明けてくれる日が来るだろうと。彼もまた人間なのだ、人は他人なしでは生きられない。そう信じていた。

「つらいよ、フランシス」

 だが、そのような日は、なぜか来なかった。

「どうして君は、時の流れの違う宇宙に戻るんだよ……
 ここでずっと……」

 涙を流しながら言いかけて、セイランは口をつぐむ。その答えを聞けば、自分は傷つくはずだった。
 フランシスがゆっくりと振り返る気配を感じ、セイランは、彼のシャツから手を離した。その手はだらんと草むらの上に置かれ、もう片方の手は、目元からぼろぼろ流れ落ちる涙を拭う。
 じきに、フランシスの手のひらがセイランの頭の上に載り、髪をゆっくりと撫で始めた。それは、荒れ狂ったセイランをなだめる時に、彼がいつもしてくれる行為だった。しかしおそらく、セイランにだけするわけではないだろう。彼にとって、セイランは、決して特別な存在というわけではなかった。長い時間、共に過ごしていたとしても。多分、彼には特別な存在などいない。少なくともこの聖地には一人も。

「セイラン。君も分かっているだろう」

 うつむいているため、フランシスの顔は確認できない。だが、その静かな声は、普段の聞き慣れた、微笑を含む穏やかなものだった。

「私は、ここを出なければならないんだ」
「……そんなの、分かってる。聖地にはいられないのは知っている。でも、それが意味することを、君が分からないはずないだろ。僕がどれだけつらいのかを……」

 しゃくり上げながら言う。フランシスは、髪を撫でつけたまま、セイランの言葉に小さく笑った。

「そうだね。私は、君より早く死ぬようだ」
「……めろよ。やめろよ、やめろよっ。こわいんだよ、僕は!」
「うん。人が死ぬのはこわいことだよ」

 淡々と言い放つフランシスを見やる。彼は相変わらず薄く笑ったまま、至極落ちついた様子で、「こわいことなんだ」と再び頷いた。

「君は今後、身を裂くような恐ろしい孤独と悲しみに耐えなければならない。
 言っておくが、私は自殺するわけではない。自ら望んで聖地を去るわけでもない。これは聖地の約束で、もうどうしようもないことだとセイランも理解しているだろう。一緒に行けるはずもない。君にはまだ守護聖としての役目がある。この場所に必要な存在なんだ」
「君はまるで」

 遮り、フランシスを睨みつけ、

「この別れの時を待っていたかのように僕には思えるんだ」

 吐き捨てると、フランシスはセイランの頭から手を退け、目線を外して遠くを眺めやり、再びセイランを見た。その瞳は澄んでいたが、暗い影を帯びていた。

「……私には、自分がいつ力を失うかまでは分からなかったけれど」
「……ああ……いい。答えを聞いたってどうせ僕が悲しくなるだけなんだ……もういい」

 ぶんぶんと頭を振り、手の甲で涙を乱暴に拭う。呼吸を整え、深呼吸をし、苛々しながら唇を噛んだり手を握りしめたりして黙っていたが、じきにフランシスがあぐらをかいて両手を後ろにつき、空を仰ぐ格好になるのを見て、セイランもまた草むらに大の字にばたりと寝た。それは、二人がここに来るとよく取っていた姿勢だった。
 ささやかな風がセイランの頬を撫でる。涙で濡れているため、少し冷たく感じる。

「……君は、医者だろう」

 半ば諦めてはいたが、念のために訊いた。

「聖地のクリニックでも、まだ働けるじゃないか」
「……そうだね……」

 肯定の返事だったが、まったく気のない調子で、セイランは絶望感を覚える。とてもではないが彼を見ることが出来ず、雲が流れる空を眺めていた。

「クリニックの仲間にも残念がられたけど、“力を失った守護聖は聖地から出なければいけない”から、止められはしなかったよ。不思議だね、全てが誰にでも当然のことのようになっているんだから。
 それに、私はここから出たいんだ。別に出ないなら出ないでそれでもいいけれど、私はもう聖地にいることに意味を感じないから」

 断言され、セイランの心が急速に冷えていく。

「……」
「君にも分かるだろう? 私の気持ちが。君もまたここから出たい人間の一人だ。私は今、安堵さえしている。
 君が私を引き留めたい理由は分かる。私が先にゆくことは――誰かが先にゆくことは、本当に悲しく、寂しくてつらいことだから。その苦しみがどれほどのものか、私には理解できる。でも、どうしようもない運命というものは、やはりあるんだ。
 人は死ぬんだ、セイラン。星々の歴史のように、すべては生まれ、朽ちてゆく。君が愛おしむ真理の中に、私はもともと存在していた。守護聖だからといって特別な生き物になったわけではない。時間差はあれど、私たちには人間に戻る道が残されている。
 私は、その命の渦の中に戻らなければならない。それが正しいことであると、君なら痛いほど分かるはずだ」
「……」
「――君にとって、私は特別だったんだね」

 大きな手のひらが、寝そべるセイランの頭を撫でた。
 セイランは目を閉じる。

「でも、特別だからと、例外はない。運命と死は、等しく万物に存在する。
 君が愛おしむ真理のように」

 凛と響く言葉に、セイランの両目から涙が流れ落ちた。