「皆さん、今までありがとうございました」

 そんな言葉を聞きたくなくて、セイランはひたすらうつむいていた。耳を塞ぐと態度があからさまなので、震える両手を握りしめ、だらんと両脇に下ろしたまま、他の七人の守護聖が彼に一人ずつ挨拶していくのを苛立った思いで聞いていた。
 聖獣の聖地の、宮殿の前である。昼のうちに守護聖の降任式を終えたフランシスが、まさに馬車に乗り込もうとする場面だった。彼は、皆から贈られた薔薇の大きな花束を持ち、悲しんでいる他の守護聖たちを安心させるために、いつもの笑みを浮かべていた。あの、優しく、どこか物悲しい微笑を。
 守護聖を降りる理由は単純なもので、フランシスは、闇の守護聖としての力をその身から失ったのだった。まだ完全に失われたわけではないのだが、闇を司るものとして宇宙育成を続けていくことが不可能なまでに力の数値が下がってしまった。そのことは本人もかなり前から分かっていたようで、身の回りの整理をフランシスがこっそり進めていることを、セイランは知っていた。
 彼の離脱は、聖獣の守護聖が全員集まって以来、九人の中で最も早かった。後からエルンストに聞くと、もともと守護聖としての力が弱かったのがフランシスだったらしい。エルンストがそれほど驚かずにフランシス離脱と向き合えたのは、彼が元研究員ゆえだからだろう。他の六人の守護聖は、フランシスが守護聖から離脱すると聞いた時に動揺したようだ。だが、セイランがそうだったように、彼らはフランシスの力の喪失を同じ守護聖として感じ取っていたはずだ。こんなに早いなんて……というわざとらしい周囲の言葉にうんざりした。
 周囲の守護聖たちの気配に嫌悪感を抱きながら、セイランは地面を睨んでいた。自然と顔は険しくなり、握りしめた手には汗を掻き、心の中では重く冷たいものがずっしりと場所を占めていた。別れの場面など、さっさと終わって欲しかった。仲間たちがいちいち彼にかける言葉が、これは真実であるという鋭い刃をセイランの心に突き刺していった。「ああ、皆さん、今までお世話になりました」という彼の穏やかな声を聞くと、今すぐにでも逃げ出したい心地になった。しかし、どうしても脚が動かなかった。もしここで別れてしまえば、もう二度と会えないかもしれないという恐怖もあった。

「……セイラン」

 不意に、自分の名を呼ぶ声が聞こえて、セイランは肩を震わせた。不覚にも、今の動揺には他の守護聖たちも気付いてしまっただろう。それが悔しくて、セイランは唇を噛んだ。
 彼に、この痛みを知られるのは構わない。けれど、他の連中に同情されることは非常に不愉快だ。セイランは顔を上げた。自分の目は声をかけてきたフランシスを憎悪していたが、視線の先には悲しげな眼差しで見下ろしてくる彼がいて、不快感を抱いた。

「……」

 口を開いたが、言葉が出なかった。胸の奥で、何かがつかえている。文句や暴言の一つや二つくらい出るだろうと思っていたのだが。
 フランシスは沈黙したままセイランを見つめていたが、睫毛を伏せると、口角に笑みを浮かべた。

「今まで、どうもありがとう」

 最も言われたくない単純な言葉を口に出され、セイランは反射的に返した。

「君は」
「さようなら」

 遮るように、フランシスは言った。同時に睫毛を上げて、灰青色の強い眼差しでセイランを見つめてくる。セイランは、その瞳の光の強さに沈黙した。彼の、こんな瞳を見るのは初めてだった。決意と深い絶望が混じっているような目だった。
 フランシスは踵を返し、馬車に乗り込んだ。これから私邸の方へ行き、荷物を整えて、夜の間に星の小径からキリエヴィルへと向かうらしい。キリエヴィルは、近年かなり過ごしやすい惑星となっており、自分の故郷である星で余生を過ごそうと、フランシス自身が決めたのだった。身寄りもつてもないのに一体どう暮らせるのだとセイランは毒づいたが、彼は、いつの間にキリエヴィルで働くあてを探し、住居も用意していたのだという。自分に相談も無しに勝手に物事を進めていく彼に、セイランはますます憤慨した。しかし、時間は止まってくれなかった。キリエヴィルでの仕事や住居などの契約期間が開始されるので、その時を見計らって聖地を出なければならず、時間の流れが異なる聖地では、出て行くのがまさしく今日ということだった。
 セイランは、愕然とした。フランシスが、そこまでして自分の守護聖としての存在を割り切れていることに腹が立っていた。あれだけ共に時間を過ごした自分のことなどまるで気にかけないようなフランシスに、怒りを覚えて仕方がなかった。もし、彼が自分にすがってくるようなことが一つでもあれば、きっとこんなに苛立つことはなかっただろう。そう考えたが、実際、セイラン自身も心では分かっていたことだった。
 フランシスは、セイランがセイランだから、共にいたわけではない。セイランが単なる同僚であり仲の良い友人だから、一緒にいたのである。ただ単にそれだけのことなのだ、彼にとっては。

「セイラン……大丈夫?」

 出発してしまった馬車を見送っていた仲間たちが、うつむいて立ちつくしているセイランに声をかけてくる。もう何も聞きたくなくて、セイランは踵を返して走り出した。仲間たちはセイランの気持ちを察したのか、何も言ってはこなかった。その同情が、セイランを余計に苛つかせた。