サアサアと雨が降っていた。
 休日の朝、白を基調とした自邸二階の私室で、セイランは出窓に座ってぼんやりと外を眺めていた。雲が薄いせいか明るいのだが、窓から見える森林の風景は雨と霧のために曖昧で、霞がかっており、まるで夢の中にいるような、ぼうっとした心地になる。
 自分が激しく泣く時は土砂降りの雨が降り、少し落ちつくと雨足も軽くなった。本当に天候が守護聖のサクリアに左右されるのだなと、窓枠の中で何度も繰り返される豪雨と霧雨を見つめながら思っていた。こんなことでは宇宙にも影響が出ているはずだ――きっと女王やその他の守護聖がどうにかしてくれているのだろうけれど。そんな自分の無責任さにうんざりしていたが、今は精神状態がそれどころでないことの方が勝っていたので、周りに頼ることしか出来なかった。それでいいのだと納得しているほどだった。
 自分の心が荒れに荒れると雨が降る。
 緑の守護聖が泣くと雨が降る。
 それはまるで定められたことわりのようだ。
 自分が緑の守護聖になった理由は、自身が自身ゆえなのかもしれない。
 君は幼子と賢者が合わさったような人間だねと、いつか聖獣の闇の守護聖は言っていた。

 雨音が窓ガラスに当たる音を聞き、放心状態で時が過ぎるのを待っていると、ふと視界に動くものを感じた。何だろうと思って見ると、邸の庭に勝手に入った黒い影が自分を見上げているのが目に入った。雨に白くぼやけた景色に不釣り合いの、ある意味白い世界に強く映える黒いローブを身に纏った男だった。彼は暗い紫色の傘を差し、じっとセイランを見つめていた。
 普段、その男の姿を見つけると苛立ちが募るセイランだったが、今日はその気力が無いのか、ああ彼が来たな、程度の気持ちしか湧いてこなかった。

 しばし見つめ合いの時間が続く。

 じきに黒い男は見上げるのをやめ、セイランの自邸の入り口の方へと向かっていった。そこでセイランは初めて男が来たことに戸惑った。彼を邸に通して何か言葉を交わすべきなのか? 男の目的はきっと聖獣の闇の守護聖について話すことだ。散々色んな訪問者を拒んできた自分なのに、神鳥の闇の守護聖だけを部屋に入れるなど今更である。
 どうしようかと考えているうちに、部屋のドアが叩かれた。「セイラン様、クラヴィス様ですが」という、半ば諦めている使用人の声が聞こえる。
 セイランは迷ったが、ふと自分が“迷っている”という事実に気が付いてハッとした。今まで惑うことなく来た人間を追い返してきた自分なのに、クラヴィスの訪問に対しては受け入れるかどうかを悩んでいる。おそらく自分は彼と少し話をしてみたいと思っているのだろう。神鳥の闇の守護聖が、守護聖たちの中で最も思慮深い人物であるということをセイランはよく知っている。
 セイランが「通していいよ」と返事をすると、肯定の返事を期待していなかったらしい使用人が驚いて「えっ」と小さく声を上げるのが耳に入り、思わず苦笑した。
 しばらくして使用人がそっと戸を開け、隙間からクラヴィスがのっそりした姿を覗かせる。どうぞと促しながらも、動く気力のないセイランは依然、窓枠に座ったままだった。
 クラヴィスが中に入ると、使用人によって戸が閉められる。彼はドア付近に佇んだまま、無表情でセイランを見つめていた。セイランは彼のことが苦手だった。この闇の守護聖は感情を露わにしない。だから何を考えているのかよく分からない――片割れの闇の守護聖の方も、感情の露呈に関しては厄介だったが、本人が知ってか知らずか笑顔が引きつったりするので、まだ分かりやすかった。それに比べクラヴィスの態度は無感情に近く、冷酷な印象さえ受けてしまう。賢く理性的であるが陰気なのが神鳥の闇の守護聖の短所なのだと、彼が好んで着る暗い色のローブを眺めつつセイランは嘆息した。

「何の用」

 素っ気なくセイランが切り出す。クラヴィスは少し間を持った後、淡々と口を開いた。

「もう間もなくだ」

 容赦ない台詞に、セイランの身体が粟立つ。自分自身も守護聖であるがゆえに、聖獣の闇の守護聖の力の喪失を日々感じ取ってはいたのだが、いざ言葉にされるとやはりショックが大きい。
 そうだね、とセイランは小さく震えてクラヴィスから顔をそらした。

「それで、何、あなたが言いたいことは。僕だってこんなざまで申し訳ないって思ってるよ」
「お前がつらいのはよく分かる」

 クラヴィスにしては意外な言葉だと思ったが、下手に同情されても腹が立つとセイランは咄嗟に言い返した。

「そういうのいらないから」
「あの男には目的があったらしい」

 話が噛み合っていないことに苛々し始め、セイランはじろりとクラヴィスを睨んだ。彼は相変わらず無表情で、静かにしている。このいつでも冷静な男が、感情の高ぶりやすいセイランには羨ましく憎らしくもあった。だが、実際、この冷淡に見える男は、決して喜怒哀楽の欠乏した男ではない。先回りして人の心を理解できる能力があるのは、彼が他人と同じ思いを抱いた経験が多いからなのだ。彼は、表面化しないだけで、心の情動は非常に豊かな男性だった。
 むかつく、むかつくけれど美しい。セイランが愛おしがるどうしようもない人間らしさを、この男もまた持っている。

「彼にとって、この聖地は悲劇の劇場だったのかもしれぬ」

 低く、凛とした声で、クラヴィスはすべるような口調で言う。

「だが、彼は役者になどなりきれなかったと、私は思う」

 クラヴィスの言い方に、セイランは目を丸くした。自分はこう思う、と、この男は滅多に言わないはずだ。彼は観察者であるゆえに、客観を口にすることが多かった。
 闇の守護聖の一連の台詞には、何かとても重要な意味が込められているかもしれないと頭の中で反芻しているうちに、クラヴィスは背を向けて部屋を出ようとする素振りを見せた。セイランは思わず引き留めかけたが、どうして引き留める必要があるのだとプライドが邪魔をして、口から何も出なかった。
 ドアノブに手をかけて半開きにしてから、クラヴィスは背を向けたままで言った。

「想うだけ、嘆き、悲しむといい。お前がお前であるがゆえの、当然の反応だ」

 そして、闇の守護聖は出て行った。それは言葉少なな神鳥の闇の守護聖らしい態度だと、再び静まりかえって雨音だけが聞こえる部屋で、セイランはひとり静かに感心した。

 窓の外をまた見やる。白く霞んだ景色の中、雨の滴に打たれた木々が小さく揺れている。
 先ほどより雨は落ちついていた。