「現実の棘が刺さるという感覚を、あなたはご存じですか?」
ティムカを見下ろしながら、フランシスは答えた。彼はいつもの謎めいた微笑を浮かべていたが、どことなく人を嘲笑っているように感じられるのは気のせいではないだろうとティムカは思った。
ティムカは、半ばフランシスを睨むようにしていた。宮殿の吹き抜けですれ違った時のことだ。ここ数日の間、聖地の天候が不安定になっていた。それは誰がどう考えても精神の安定しないセイランが原因だった。雨は降らないが空は陰鬱な灰色の雲に覆われ、恒星の光はほとんど届いていない。フランシスの、聖地から脱退するという緑の守護聖にとって衝撃的な伝達が、宇宙レベルに及んでサクリアの力を脅かしているのだった。
周囲はサイコテラピストに言った。セイランをどうにかしろ、どうにか出来るのはお前しかいないと。
だが闇の守護聖は、周囲の懇願を一蹴した。
「耐えなければならないのです。残酷ですが、それしか残っていないのですよ」
目を細め、薄ら笑いながらフランシスは言った。その瞳はまるで暗黒のようだった。
雨の匂いの混じった生ぬるい風が吹いている。ティムカのしなやかな髪がばらばらと煽られていた。聖獣の女王も、時に喪失したり暴走したりしている緑の守護聖のサクリアを制御するのに必死なのだ。どうにも抑えきれない時は、神鳥の聖地からマルセルを呼んでいるようだった。
このままでは女王の負担が増大してしまう。皆のために、聖地のために、宇宙のために早く緑の守護聖に言葉をかけてやってくれ――そう頼んでいるのに、フランシスは未だ行動しなかった。それよりも身の回りの整理整頓に慌ただしくしているらしい。
「あなたを待ちわびているはずです、本当は」
ティムカが唸るように言うと、フランシスは、そうでしょうかと軽く首を傾けた。
「セイランは、私が彼の自邸に行っても会いたくないと仰るんですよ、ドアの向こうで」
「あなたの態度と言葉に怯えてるんです」
この男には何を言っても無駄かもしれないという絶望感を抱きつつも、ティムカは諦めずに続ける。
「セイランは、あなたが更に自分の傷つくことを言い放つのではないかと怖がっているんです」
「なら何を言えばよいのですか?」
すかさずフランシスは返した。それは冷たく、無感情な言い草だったが、もしかしたらこの機械的な態度が本来のフランシスの姿なのではないかと、ティムカは頭の片隅で思う。
フランシスの口から辛辣な台詞が出てくる気がして、ティムカは構えた。
「嘆くな、悲しむなとセイランを励ませば良いのですか?」
「それは」
「私がいなくなっても元気でいろとでも言えば良いのですか?」
その遮り方は威嚇のようだった。
「あなた方は、私のことを人に癒しを与える存在なのだと思っているのかもしれません。セイランを救えるのは私しかいない、確かにそうでしょう。しかし、私にはもう彼を救うことは出来ません。彼のこの絶望は私が原因です。彼の望みは私がここに残ることです。でも、それは不可能なのですよ、それが決まりで、それが定めなのだから」
「……あなたは……」
この男に言い返すことはやめようと落胆し、ティムカは顔を俯かせた。闇の守護聖の清潔なブーツのつま先を眺め、弱々しい声で問う。
「あなたは、仮に力を喪失した後でもこの聖地に居残ることが出来るならば、ここに残りますか」
特に考える間も無く、
「いいえ、残りません」
フランシスに断言され、ティムカの心に悲しみが宿る。それは、セイランを哀れむ気持ちというよりも、フランシスの確固たる意思を崩せない自分の無力さを嘆く気持ちに近かった。
この男は、初めからそうだった。ティムカは周りから囁かれてだんだんとフランシスの本性に気が付いていったが、彼は決して他人に心開かず、どこか冷酷で、演技臭く、事物に無関心だった。人間の様々な側面を知識として持つ者であり、人として豊かなはずなのだが、時間が静止してしまっているような、何かが凍りついてしまっているような、そんな印象を受けた。聖地で、同じ運命を持つ守護聖たちと過ごしてきたものの、結局最初から最後まで彼は変わらない。事実を突きつけられ、ティムカは落ち込んだ。「現実の棘が刺さるという感覚を、あなたはご存じですか?」という言葉の意味が分かるような気がした。
フランシスは相変わらず微笑を浮かべ、淡々と言った。
「セイランの側にいつまでもいてやれと? ここに残って、私に何があるというのです。
彼には気の毒ですが、私にも、私の人生がある」
ふと発せられた言葉に、ティムカは違和感を覚えて顔を上げる。
「人生?」
それは、フランシスにしては意外な一言に感じられた。
「これから先の人生を、あなたはどう生きたいと思っているんですか?」
問いには、少しの沈黙があった。
「……あなたはどうしたいと思いますか? 見知った人のいない場所で」
依然表情を崩さず、問いに対し問いで応えたフランシスだが、その低い声音には、何かとても悲しい別の思いが込められているような気がして、好奇心でティムカは素直に回答する。
「この聖地に召喚されたことが私の運命だったように、いつか私がいずれかの星に降り立ち宇宙の時の流れに身を任せることも、また運命だと思います。私は、それを悲劇だとは思いません」
はっきりと言い放ったティムカを、フランシスは青灰色の瞳でじっと見つめた。
強い風でローブがはためき、遠くからは雨の降り出しそうな雷の音が聞こえてくる。またセイランの力が暴れ出したのだろう、そして女王は彼の力を制御するのに必死だ。先輩である神鳥の聖地の守護聖たちからも、早く何とかしろとフランシスは言われるのだろうか。それはそれで気の毒なことだ、セイランが彼に懐いてしまったことも、ある意味この事態の原因であるのだから、闇の守護聖ばかりに責任を問うのは良くない。今度はフランシスに対するそんな哀れみが生まれてしまい、ティムカはもう何がなんだか分からなくなった。
フランシスは、しばらくして呟いた。
「悲劇という言葉が、私には憎くも好ましくもあります」
ティムカは首を傾げる。
「セイランに起こっていることは悲劇なんですか?」
何気なく、とにかくまたこのやりとりをセイランの話題へと持っていかなければと思って口にした言葉に、フランシスは意味深に小さく笑った。
「事実には、喜怒哀楽などありません。重要なのは、事実を幸福とするか、悲劇とするかという己の考え方なのですよ。
結論に落ちつきましたね。私はこれで」
さっさと切り上げたかったと分かる口調で言い、フランシスはティムカの横を通り過ぎた。足早な踵の音が反響する。のろのろとティムカが振り返ると、彼の姿はすでに廊下の角を曲がって見えなくなっていた。
優しさや同情すらない、そのどうしようもなく真実であるサイコテラピストの答えに、ティムカは立ちつくすしか無かった。
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