休日の太陽が沈む時刻、セイランはフランシスの舘に向かった。本当は午前中から会いたかったのだが、フランシスに午前診療があるということで、昼過ぎまでアトリエにこもって熱中していた。こびりついた油彩の匂いを風呂に入って消した後、馬車に乗って彼の舘まで来たのだが、使用人の話によると、後に予定がある時には自分の部屋からほとんど出ることのない舘の主が、珍しいことに少し前に散歩を外に出たということだった。
一体どこに行ったのだと考えを巡らせ、とりあえず舘の庭をうろついてみる。すると、バラ園にある白く華奢なベンチに、フランシスの姿が見えた。季節違いのバラ園には、舘の庭係が好んでいるらしい適当な花々が整然と並び、色取り取りで美しかったが、やや人工的な感じがしてセイランはあまり好きではなかった。そもそも、庭園のような人間に造られた現場に違和感があった。自然が自然のままに生やせた緑が最も美しい。以前フランシスにそのことを話したら、彼は少し笑って「私はそういったものを意識して見たことがないし、意識する自然も少なかった」と言った。
フランシスは、ベンチに深く座って眠っているようだった。長い両手の指を腹の上で組み、目を閉じて、静かに呼吸している。こんな無防備な姿を晒すなど、本当に珍しいことだ。彼は、もといた生活環境のせいなのか元来の性格なのか、常にきっちりしていることを好んでいた。人工的な庭、しゃんとした衣服、きちんとした家具、整然とした卓上、形の決まった音楽、礼儀正しい挨拶、美しい言葉遣い。
彼の名前を小声で呼んでみたが、気が付かない。こんなところで寝ていては風邪を引くよと言いかけて、そうだ、ここは聖地で自分たちは守護聖だったと落胆し、フランシスの隣にそっと腰掛ける。すると、ベンチが軋んだのか、フランシスがふと頭を起こした。
ゆるゆると睫毛が上がり、ゆったりと眼球が動いて、そのうち瞳がセイランを捉える。セイランは無表情でフランシスを見つめ返していた。フランシスは、微かな言葉にならない声を漏らすと、身体に力を入れて伸びをした。
「セイラン……ごきげんよう」
「ごきげんよう。珍しいね、君がこんなところで寝るなんて」
嫌味を言っているのだと思われないように、セイランは極力自然な口調で言った。フランシスは頷いて溜息をつくと、微笑してベンチの前にある庭園を見つめた。
「診療が忙しかったんだ。夕方近くまでクリニックにいた」
「医者って定時を守るもんなんじゃないの?」
「甘いなあ……」
棘のある返事をされてムッとしたが、あまり興味のないことだと思って特に聞き返さなかった。適当に流し、ベンチの横に一本だけにょきりと生えているコスモスの花びらを手で触る。
「フランシスってさあ、好きなの?」
「なにが」
「医者やること」
フランシスとは反対側を向いているせいで、問いに対して彼がどんな表情をしたかは分からない。彼は少し沈黙した後、腹から息を吐くようにうーんと唸った。
「好き嫌いで分かれるようなものではないな……」
「自分から医者になったの?」
コスモスの方を向きながら、セイランは自身の問いに緊張した。フランシスの過去、すなわち聖地に来る以前の情報を聞き出すことは、セイランには少し恐いことだった。おそらく彼には昔の話題に触れられることが好ましくない――というのは、彼が自ら自身のことを話したがらないことによるセイランの勝手な予測なのだが――のだろうし、些細なきっかけで彼との間にむやみな亀裂を作りたくはなかった。だだでさえ、触れて弾いたらプツンと切れてしまいそうな細い弦のような男である。問いかけに後悔すらした。
だが、フランシスは、小さく唸りながらもその問いに答えてくれた。
「そうだよ。でも、それは別に医者が好きだからという理由ではないかな。経済的な問題もあったからね。だからといって別に目指しているものもなかったから、勉強出来る環境があるなら医者になろうと思った」
「……ふうん……」
「ここで医者をしているのは」
きっとその名残なのだと思うと彼は言った。
「自分の生きてきた環境を変えることは難しいみたいだね」
「そう。まあ、僕もそうだけどね」
「セイランは、なぜ“芸術家”なんだい?」
質問に、セイランは半眼になって振り返った。無邪気な表情をしているフランシスを睨みつけ、溜息混じりに言う。
「それを芸術家に訊く?」
「え? ああ……うん。それもそうだ。でもほら、絵を描いたり物を造ったりすることは、昔からしていたんだろう?」
「まあね。そういう才能はあったんじゃないの。でも、意識して作品を創ったりはしない。もっとこう……内から出るエネルギーみたいな、強い衝動で、僕は描いたり造ったりせざるを得ないってわけさ」
「ふうん。私は芸術する側には長けていないから、いまいちピンと来ないのだけれど。
でも、セイラン、もし君の作品が人に見てもらえなくても、君は芸術家をしているのかな?」
それはサイコテラピストが尋ねた何気ないことだったのだろうが、セイランにとっては大きな設問だった。少しのあいだ回答に悩み、眉をひそめた後、「どうだろうなあ」と背もたれに体重を預けて空を見つめた。藍色とオレンジ色が混ざっていく、夜へ向かっていく空を。
「評価がなければ、それは芸術とは言えないという法則があるのだとしたら、僕が僕に対して発信するだけの作品は、きっと芸術ではなくなるんだろうね。たとえば世界に僕だけしかいなくなって、僕が何かを創り続けていたとしても、誰も芸術であると定義づけてはくれないから。他人の評価があって初めて僕は芸術家になれるんだ。
よく、自分自身が芸術だと思えばそれは芸術なんだという論破があるけれど、僕はあまり感心できない。やっぱりある程度新しくて高度な技術がないと、模倣にしかなりかねないしね」
「なるほど」
感心したようにフランシスは相づちを打った。他にも何か言葉を続けられたら続けようかと思ったが、良い持論が見つからずに断念して溜息をつく。
「芸術とは何かっていうのは考え始めたらきりがないんだ……なんでもありの世界だから」
「そうだね。創造主がたくさんいるようなものだからね」
「うん」
肌寒い風が吹いて、薄着をしているセイランは身震いする。それに気が付いたフランシスは、部屋に戻ろうと提案した。彼が立ち上がって歩き始めたのに続き、よいしょと腰を上げたとき、セイランはふと気が付いた。反射的に振り向き、舘の入り口へ向かって遠ざかっていく男の背中を凝視する。
セイランの心臓が静かに、大きく打った。瞬きも忘れて目を見開く。
冷たい風が吹いている。舘を取り囲む森の木々がざわざわと波打つ。
セイランの白い衣が風に煽られて肌を打ち付けた。
男はしばらく歩き、セイランの気配が無いことに気が付いたのか途中で立ち止まり、振り返って不思議そうな顔をした。
おいで、と手招きをされる。
導かれるままに、セイランは覚束ない足取りで、ふらふらとそちらに向かった。こんな時でさえ、強がりなのか何なのか、平然とした顔でいなければと自戒する自分がいた。
願う。
神さま、と、心の中で叫ぶ。
自分が今呼んだ存在に等しいことも忘れて、絶望と共に、セイランは願う。
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