夜の静けさのみが残った寝室の中、うずくまっていたセイランは、ようやくのろのろと腰を上げた。先ほど彼の父親に示されたベッドの方に向き直り、しばし沈黙した後、ほんの少し歩みを進めて、立ち止まった。
 セイランの心の中に生まれつつあるのは、疑問と恐怖だった。天蓋の奥で胸っているというフランシスは、一体どんな顔をして眠っているのだろう? それとも、眠っているのは比喩的表現で、もしかしたら彼はすでにこの世の人ではなくなっているかもしれない。もしこれが彼の最期の夢で、たまたま自分がここに招かれただけなのだとしたら? もし話しかけて、フランシスがセイランなどという男は知らないと言い始めたら? 自分はショックを受けるのだろうか? そのとき自分は彼に対してなんと答えれば良いのだろうか?
 この先にいるのは、おそらく本物のフランシスなのだ。確か彼の父親は、彼の闇に呑まれないようにと忠告した。ということは、彼は、もはや闇に囚われてしまっているのかもしれない。そんな彼を、果たして自分が救えるというのだろうか? 彼に救ってもらってばかりの自分に、甘えてばかりだった自分に、つい先ほど彼の真実のほんの少しを知っただけにすぎない自分に。

(でも、彼の父親は……
 フランシスは、もう目覚めなくてはいけない、と言った)

 だが、この無人の仄暗い邸に、他に彼を揺り起こすことの出来る人間はいない。

(僕に……万が一その資格が……あるならば)

 フランシスに触れることがセイランに許されるのだとしたら、彼は、決してセイランもろとも闇に呑み込んでしまおうなどとは思わないはず――フランシスという男ならば。
 セイランは、歩みを再開させた。恐れからか両脚はぎこちなく動いていた。彼のベッドの左脇に来ると、紺色の天蓋に覆われている中をそっと垣間見た。確かに彼らしき髪の色が見えるような気もしたが、レースの天蓋が何重にも折り重なり、しかもその色が同系色であるため、いまいち確信が持てない。
 手を伸ばし、セイランは天蓋を掻き分けた。どこが天蓋の割れ目なのか分からず両手を使ってたぐり寄せていると、そのうち視界が開けたが、その途端に。

「……!?」

 辺りが真っ暗になった。天蓋を除けたら見えると思っていたベッドは消え、手に持っていた天蓋の感触も無くなった。反射的に周囲を見回すと、そこは闇だった。何も無かった。自分が今どこにいるのかも、目を開けているのかも分からない真っ黒な空間だった。
 闇に呑まれるなという彼の父親の言葉が頭の中で反芻される。
 参ったな、とセイランは眉をひそめた。

「もしかして、最悪の事態?」

 いつもの調子で皮肉ってみたが、自分から発せられた声が先ほどの涙の余韻で鼻声だったため、思わず苦笑してしまう。もう一度周囲を見回してみたが、光と思しきものは見あたらない。光の無い場所はこんなにも暗いのか、これが真の闇なのかと滅多に出来ない体験に感心していたが、感心している場合ではないとすぐに分かった。
 セイランは、ふらついた。急なことだったので、何が起こったが分からなかった。しばらくじっとしてみると、自分の身体を支える力が急激に無くなっていることに気が付いた。片手を何度か握り返してみたが、思うように力が出ない。
 やはり、とセイランは悔しく思った。
 確かに、光のように緑が闇に反発することはない。しかし、緑の力は、陽の当たらない場所、光の無い場所では思うように働かない。緑は、光と闇の相互関係があって初めて力強く生きるものだ。なぜなら、それこそが生命であるから――それは、セイランという存在そのものも例外ではない。

(……このままここにいたら、僕は死ぬかもしれない)

 ぼんやりと闇を眺めながら、セイランは心の中で独りごちた。緑は、闇の中で生き続けることは出来ない。セイランは生命を司る緑の守護聖そのものであるから、余計に他のサクリアとの反応が強く出るだろう。だからこそ、彼の父親は言ったのだ、フランシスの闇の力に囚われてはいけないと。
 しかし闇で捕らえたのは君の方だろうと、セイランは不機嫌になって口を尖らせた。

「フランシス!」

 叫ぶ。しかし、自分が声を出して叫んだのかどうかが分からなかった。ここは音が反響する空間ではないのかもしれない。
 らちがあかない。セイランはかぶりを振り、仕方なく、力の抜けつつある脚でゆっくりと歩き始めた。どこに向かうのかは知れないが、何もしないよりはましだろう――僕の身体がいつまで保つか分からないけれど。そう溜息をついていると、まもなく何かがつま先に当たった。何事かと思い手探りでしゃがみ込むと、床と思われる場所を触ったようだった。冷たくも温かくもない固い床が指先に触れたが、ふと、何かなめらかな液体が床の上に流れていることに気が付いた。
 その感じに覚えがあって、セイランの肌が粟立った。液体は生暖かく、ぬめぬめとしていて、その液体特有の鉄臭さを漂わせていた。身体から血の気が引いていくのを感じつつも、セイランは、必死になって辺りを手で探った。すると、物体に突き当たった。
 手のひらを何度か当てて確認してみると、それは、人間の腕のようだった。しかも、血の海に沈んだ人間の冷たい片腕だった。