すると、どのくらい経った後だろうか、不意に、すぐ間近で気配を感じた。ようやく涙が止まってきた頃だった。直後、自分の頭に何かが載ったので、セイランはびくりと肩を震わせた。
 しかし、それが何なのかを瞬時に悟ると、セイランは胸の内で絶叫した。

(やめて……!)

 せっかく涙の気配が去ろうとしているのに、それをされてしまったら、再び泣いてしまうではないか。

「……フラ……シ、ス……!」

 やめて欲しいと訴えたいがために、セイランは、その手を避けるように身を更に小さく縮めた。しかし、彼はセイランの頭の上に顎を載せて身体を包み込むと、セイランの頭をひどく優しい手つきで撫で始めた。
 それは、セイランが荒れ狂った時に、落ち着かせるために彼がよくする動作だった。親のような、兄のような、とても親しいその手のひらの温かさを、セイランは彼にそうしてもらうまで感じたことが無かった。初めて頭を撫でられた時には驚愕と羞恥心で気が動転してしまったが、本来、幼少期にこのような手の慈しみを味わうのならば、それが遅れて来ただけのことであると自分に言い聞かせて納得した。それ以来、セイランは、フランシスに頭を撫でてもらうのが好きになった。彼にそうしてもらうと、なぜか自分は安心した。彼が眠りを司る闇の守護聖だからか、あるいはサイコテラピストだからかは知れないが、手のひらから気分を落ち着かせてくれる何かが流れ込んでくるようで、ひどく心地が良かった。
 今、このような時でも、セイランはそれを感じたのだった。ただ慰めるように、安心させるように、彼は軽くセイランの身体を包んで、髪を穏やかに撫でつけていた。つらいのは自分ではなく彼の方なのに、この彼の仕草と温かさは果たしてどこから来るのであろうと、セイランはたまらなくなって涙を流した。なぜ、彼はこんなにも優しいのだろう。穏やかなのだろう。その心の奥底には、計り知れないほどの苦しみと痛みと冷たさを宿しているはずなのに。

「セイラン、といったかな……」

 先ほどの悲嘆に暮れた声とは違う、静かで低い優しい声が、すぐ耳元で聞こえた。

「君には、彼を救うことは出来ないよ……」

 その言葉に違和感を覚えて、ふと、セイランは顔を上げた。すると、彼はその疑問を悟ったかのようにセイランから少し身を離し、頭を撫でる手はそのままに、微笑を浮かべて腕の中の青年を見つめた。その微笑みは柔らかく、セイランが初めて見るフランシスの“本当の”微笑のようにも思えた。
 セイランは、涙に震える声で問い返した。

「……あなた……は」
「彼は、君に何もしてあげられないと思っている。君が悲しんでいるのに、彼にも彼自身のことが分からないから……
 君は本当に優しい子だ。あの子をこんなにも想ってくれているんだね」
「あなたは……!」

 驚嘆の瞳で、セイランは、フランシスと今まで思い込んでいた――いや、どこか気が付いてはいたのだが――男の顔を凝視した。彼は、このようには微笑まない。本来の彼は、すでに本当の微笑み方を失くしてしまった。ならば、自分の目の前にいる、フランシスが本来持っていたと思われる真実の微笑を浮かべたこの男は――

「ああ」

 セイランの言いたいこと悟ったように、彼は、親しみ深く頷いた。

「フランシスの父だ」

 彼の答えによって予想していたことが確信に変わり、途端に口元に手を当てて、再び顔をくしゃりと歪ませた。止んでいた涙が、また飽きもせずにぼろぼろとこぼれ始める。

「あなた、が……」
「私の息子は、私の死によって苦しんだ。私の死を自分の責任だと思い続けている。あのとき死んだ私が、息子を生涯苦しめ続けることになってしまった。息子を不幸にしてしまったのは、この父だ。社交界で父親のいない家族が生き続けるのはひどくつらいことだというのに……フランシスは長男だから、自分の家族を守ろうと必死だったのかもしれないね」

 男は、遠い目をして、どことも知れない場所を眺めた。彼と同じ色をしたその青い瞳は、愛情と憂いに満ち、底知れない慈悲に溢れていた。

「その悲しみと虚無の心で生きながら、追い打ちをかけられたように、息子は愛した人を失った。
 彼の愛した女性は、自ら命を絶った。息子は、その女性を殺したも同然の男を殺したいと強く願っていた。だが殺せなかった。フランシスは、母親や妹を守るために、家が犠牲になるようなことをしてはいけないと自らに強く言い聞かせて……そして」

 沈痛な面持ちになってうつむき、男は悲しげに目を伏せた。

「……そして、自らの憎しみを、すなわち心を殺すことで、家族や患者たちや守られなければならないものを守ろうとしたのだ」
「――ならば」

 とっさに、セイランは、男の胸元にすがりついて聞き返す。

「ならば、なぜ、彼は守護聖になどなったんです!」

 男はゆるゆると目を上げて、悲痛な表情はそのままに、ほんのりと微笑した。この先の言葉を聞いても悲しむなというように、その笑みは優しく、穏やかだった。

「さあ……守りたかったのかもしれないね、全てのものを。元来ある痛々しいほどの優しさゆえに」
「……だっ……て……
 僕は……!」

 男の胸元を握りしめている手が震え始め、セイランはうつむいて、涙が床に落ちていくのを曖昧な視界の中に認めながら叫んだ。

「僕は、言ったんだ、守護聖なんてつまらないって……神様なんてくだらないって……
 ……彼に!」

 申し訳なさと激しい後悔が全身を襲い、セイランは戦慄した。ガタガタと震える手を、まるで赦すかのようにそっと包み込んでくれる男の手が、今は苦痛で仕方がなかった。男の胸に爪が食い込んでしまうほどにシャツを握ることで、その優しい行為に抵抗するしか他無かった。