彼らしき人影を見たのは、寝室と思われる部屋に足を踏み入れた時だった。暗い室内で、ぼんやりとした広い光が窓際の二人掛けのソファに集まっていき、やがて光の中から人体の形をした影が現れた。それは、やはりフランシスだった。憂いを帯びた顔をし、濃い色をした長い睫毛を伏せて、脚を組んだ体勢でソファのまん中に座っている。
 もしかして僕が来るのを待ちかまえていたのだろうか? 怪訝に思いながら、セイランは先ほどまで十数の部屋の扉を開け続けてきた疲労で汗ばんだ額から、指先で前髪を払った。
 ソファは、寝室にしてはやたら広い部屋の、入り口から向かって左側にあった。今まで見てきた館内の部屋も、十分すぎる広さの寝室や応接間ばかりだったので、やはり彼は元貴族の人間なのだと感じざるを得なかった。宮殿の執務室や各守護聖にあてがわれた部屋も、セイランからすればそれなりに大きなものだったが、フランシスにとっては別に大した広さでは無かったと思うと何となく腹が立つ。

「もう、ちょこまかしないでくれる」

 大げさに足音を鳴らしながら近づくと、ソファに座っていたフランシスは、非常にゆっくりとした動作でセイランを見やった。その瞳が先ほどよりも虚ろだったので、セイランは立ち止まった。今までそうであったようには、彼は、微笑んでいなかった。彼の微笑み以外の顔を見るのは珍しいことだ。それゆえに、奇妙さを感じて立ち止まったのかもしれなかった。
 彼は、瞳に深い悲しみを宿した様子で、うっすらと口を開いた。

「ああ……君は、確か」
「セイランだよ」

 幾分苛立ちの募った声音が自分から漏れて、セイランは慌てて胸元を押さえて言い直した。

「セイランです」
「そうだ、セイラン……そんな名前を聞いたような気もする……」

 溜息のように呟き、彼は、力無くうなだれた。

「……嘆いている……声が聞こえる。今もまだ、心は泣いているのに……」

 そんなことを彼が言うので、セイランは、何かが聞こえるのかと思って息を潜めた。しかし、特に何かの話し声や物音がするわけでもない。確認するため、一通り誰もいない部屋を見回した後、

「……先ほど、あなたは泣いていましたが」

 顔を伏せたままのフランシスのつむじを眺めながら、セイランは尋ねた。

「何か、悲しいことがあったんですか?」
「悲しい……?」

 フランシスはゆるゆると顔を上げ、どこか茫然自失といった目つきで宙を仰いだ。

「そう……悲しいという感覚を、かつてはあんなにも味わったのに、もう分からなくなってしまったらしい……私のせいで」
「……何があったんですか?」

 だんだんと核心に迫っていると感じながら、セイランは声を低くして慎重に問うた。すると、フランシスは両の手のひらをじいと見つめ、じきにその上にゆっくりと顔を伏せた。人が悲しい時、嘆く時にする仕草である。

「私のせいで……あんなにも苦しんだというのに、また悲しんで……
 殺したいほど憎いなどと思うことが起きようとは……」
「殺したいほど憎い……?」

 目を細めつつ、セイランは、フランシスの方へと歩みを進める。

「それは、一体?」
「ああ、あれは……
 ただ、愛する人を守れず、その愛する人を間接的に殺した男を……殺したかった。なのに……」

 悲痛に紡ぎ出されるフランシスの言葉を聞きながら、セイランは、彼が“ああなった理由”が急激に分かり始め、胸の奥が軋む感じを覚えた。顔を手のひらで多い、力無く悲嘆に暮れているフランシスの前まで歩み寄ると、その場にしゃがみ込み、下から様子を伺うような形で彼を眺めやった。

「……それなのに?」
「それなのに……シティには、他にも大勢、救わなければならない人たちがいたから……」
「……
 いたから?」

 だんだんと。
 セイランの胸に、切なさと苦しみがこみ上げ始めた。それは確実にフランシスから伝わってくる心の痛みではあったが、それを甘受しているのは自分の方なのだと自身で分かっていた。
 セイランは、少しでも慰めになるのならばとフランシスの身体か髪を触ろうとして、腕を伸ばした。しかし、ためらいを覚えて、その動作を途中で止めた。
 自分などに彼を慰める資格があるのかと疑問に思った。

「彼は、自分を殺したのだ。
 自分の心を、彼は……」

 彼の、かすれた声で紡ぎ出されたその言葉に。

「……」

 セイランの目に、ふと涙が浮かんだ。溢れた涙が、目の前にいる夜色の髪を持つ青年の姿を歪ませた。唇が小刻みに震え始め、セイランは思わず自分の口元を指先で触った。こらえようと思ったが、この感じでは無理だと悟った。ぼろぼろとこぼれ始める涙は頬を滑り、しゃがんでいる状態の脚の上に落ちて、その衣服に――そういえば自分は、この夢と思わしき世界でなぜか執務時の格好をしていた――じんわりと染み込んでいった。その雫は、きっとこれから無数になっていくのだろう。

 彼は、緩慢に首を横に振り、溜息混じりの声で続けた。

「悲しみと、その後に引き起こされる憎しみを殺すということは、想像を絶するほどの苦痛を伴うというのに」
「……だ、から……」

 無駄だと分かっていても溢れる涙を拭い、セイランは、しゃくり上げる前の苦しげな息をしながら後を継いだ。

「だから、彼は……
 いつも、笑っているんですね……?」

 自分自身の放った言葉に、セイランは泣けてしまった。ああまずいと自分を責めたが、フランシスがそうしているように自分もまた両手に顔を伏せ、小さく丸まり、その場で激しく泣き始めた。