セイランは、目の前に佇む洋館を見上げると、気を奮い立たせて歩を進めた。彼は、この中にいる気がする。直感ではないが、フランシスとの長い付き合いで、彼の行動が何となく分かるのだ。自分だったらこのまま消えて二度と姿を表さないこともありうるが、彼は再び自分の前に姿を見せるだろう。

(君は、僕以上に寂しがり屋なんだよ)

 心の中で呟き、重たい大きな扉を両手で開けると、洋館の奥から冷たい空気が流れ出て、するりと頬を撫でていった。中に明かりがついていなさそうだったので、外からの光を取り入れるために、セイランは両開きの扉のうち片方だけを押しやって全開にした。ふうと息をついて中を見回すと、灰色と白色のチェス盤のようなチェック柄の床の上に長い絨毯が真っ直ぐ敷いてあり、その先は二階へと上る階段に続いていた。
 天井にはシャンデリアがあり、壁にはいくつもの燭台があったが、長いあいだ誰も火を灯したことが無いようで、古びていた。外の薄暗い光のみで照らし出される屋内に、出来れば蝋燭などの明かりが欲しいと思ったが、火を灯すための道具など簡単に見つかりはしないだろう。諦めて中へと歩き始めると、不意に気配を感じ、そちらに振り返った。奥にある階段のセイランから見て左横に、ロッキングチェアーに座ったままのフランシスが、やはりいた。
 セイランは、無言でそちらに近づいた。フランシスは先ほどの悲嘆はどこへやら、暗いホールの中でやや眠たげな顔をし、椅子を揺らしながら天井を見つめている。セイランの足音に気が付き、ふと目線だけやると、再び微笑を浮かべてみせた。

「やあ」

 その呼びかけを合図に、セイランは立ち止まった。彼と六、七メートル程度離れた場所だった。

「君は……誰だろうか?」

 先ほどと同じ問いにセイランは戸惑ったが、ひるまずに毅然とした態度で答えた。

「セイランです」
「セイ……ラン。ふむ……確か、そんな名前を聞いたことがあるような、ないような……」

 一応、記憶の前後関係はあるんだ、と思いつつ、

「ここは、君の……あなたの館なんですか?」

 セイランが問うと、フランシスは笑んだまま、そうだ、と深く頷いた。優しい眼差しでホールの中を見回し、じきにセイランまで視線を戻すと、良い館だろう?と親しみ深い声で言った。

「だいぶ古いのだが……それでも私は、ここが好きなんだ。いるだけで、とても落ち着くから」
「そのようですね」
「だが、時おり、嘆くのだよ……」

 不意に、暗い声でフランシスが呟いた。セイランは、え、と面食らいながら問い返す。

「嘆く? 館がですか?」
「悲しいとき、寂しいとき、苦しいときにね……。
 この館は、シティという息苦しい世界で生きる者が、心の平静を取り戻すために使われる場所でもある。しかし、建物に響き渡るその悲嘆は重なり、重なり続けて……
 館が、どこか重苦しく感じられるのは、そのせいかもしれないね……」

 詠うように答え、フランシスは、ゆっくりと瞼を閉じた。それ以上、動く気配が無いので、もしかして寝たの?と怪訝に思い、セイランは彼の傍まで歩み寄った。
 そして、ぎくりとした。彼の閉じた目から、涙が幾筋も流れていた。セイランは、フランシスが泣くところを見るのは初めてだった。そういえば、自分は情緒不安定になると感情の爆発と共に彼の前で大泣きすることが何回もあったが、自分は、フランシスの泣き顔、いや、感情がほとばしるところを見たことすらなかった気がする。彼は、感情というものを露出しないのだ――まるで、それを感じる心が失われてしまっているかのように。
 自分が完全に動揺していることを悔しく思いつつも、心配になって、あの、と思わず声をかけた。すると、フランシスは、涙に濡れた睫毛をゆっくりと持ち上げて、どこともない場所を眺めた。

「……ああ……
 愛する者を失った後の生に、意味はあるのか……?」

 自問のように囁かれた言葉を耳にして、セイランは、反射的に怒りを覚えた。

「無い、とおっしゃるんですか?」

 問い返した瞬間、彼の姿が、先ほどのようにふっと消え去る。

「! 君ってやつは!」

 僕の問いに答えてよ!と地団駄を踏み、苛立ちながら、セイランは改めてホールの中を見回した。一階と二階にそれぞれ四つの扉と、どこかへと続く廊下が数本あった。この屋敷中を走り回り、どこに現れるとも知れない彼の姿を探すのは、かなりの骨である。

「……フランシス!」

 もういっそお前から出てこいと言うつもりで叫んだが、声はホールの中に反響するだけで、彼と思わしき反応は無かった。
 盛大に溜息をつき、セイランは、しぶしぶ近くにある扉から一つずつ開けて彼を探すことに決めた。