少し肌寒い感じがして、ゆるゆると瞼を上げると、そこは暗闇だった。
 何も見えない闇であるのは、彼が闇の守護聖たる所以だろうか。しかし、何度か瞬きを繰り返しているうちに、そこが真の闇ではないことに気が付いた。目線だけを上げると、今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした暗い空が広がっており、冷たい霧が空気中を漂っていた。
 時間帯からすれば夜である。
 セイランが佇んでいたのは、どこかの庭園らしき場所だった。足下は石畳になっており、周囲にある噴水やフェンスの建築様式からすると、少なくとも聖地にいるのではないようだった。少し離れた前方には、その庭園への入り口だと思われる大きな鉄格子があり、向こう側には家々の立ち並ぶ通りらしきものが見えた。
 冷えるな、と両腕を服越しにさすりながら後ろを振り返ると、間近に大きな屋敷があった。白い外観だが、かなり古いようで、よくよく見ると窓枠や彫刻の老朽化が進んでおり、廃館に近いように思われる。
 セイランは、もしや、と眉をひそめた。

(確か、彼は古い屋敷を逃げ場にしていたと聖天使から聞いたな……)

 もしかして、それがここなのかもしれない。彼は今、混濁した意識の中で、自分の故郷の邸にいるのだろうか。現在の惑星キリエヴィルからすれば、かなり昔の時代に。
 踵を返し、セイランは建物に入るべく館の入り口へと向かった。そして、すぐに足を止めた。先ほどまで誰もいなかったと思われる場所、屋敷の大きな玄関の扉の前に、人影が見えたからだ。
 霧の合間に現れた影は、木製のロッキングチェアーに座っているフランシスだった。聖地にいる時とあまり代わり映えのしない、タイをふんわりのせたシャツと、暗い色のズボンを身に着けている。漂う霧の中、ゆらゆらと揺れ動く椅子を見て、なぜこんな野外に家具があるのだとセイランは訝しんだが、それよりも椅子に座っているフランシスの顔を見て言葉を失った。
 顔色が悪い。真っ白である。扉の近くにある明かりが彼の顔を照らしていたので、よく分かった。フランシス、とセイランが心配して声を上げるより先に、彼がこちらの姿に気が付いて、椅子に座ったまま小さく笑んだ。

「君は、誰かな?」

 ごく自然な様子で言われたその台詞に、セイランは衝撃を受けた。思わず動揺して身じろぐーーが、もしここが彼の過去だとしたら、守護聖になっていないフランシスにセイランの記憶があるはずがないと気付く。
 気を取り直して姿勢を正し、セイランは真っ直ぐに彼を見つめ、答えた。

「セイラン」
「……ああ……」

 フランシスは、緩慢にうつむき、少し考え込んだ素振りを見せてから、首を横に振った。

「申し訳ない……私は、君のことを知らないようだ。しかし、私も……私が果たして何者か、よく分からないのだよ」

 うっすらと笑みを浮かべたまま、彼は、暗く曇った空を眺めた。

「さて、私は何だったろうか? 分からないほどに、心がとても疲れてしまっているようだ。
 確かに私は私であったのだが、いつからか私で無くなってしまったらしい……」
「……」
「君は……」

 フランシスは、ふとセイランに目線を戻すと、ゆっくりと椅子を揺らし、少し首を傾けた。

「君は……私の知り合いだったのかな?」
「……確かに、僕とあなたは知り合いですが」

 慎重に言葉を選びつつ、

「今はまだ、知らなくてもいいんです」

 言ってやると、フランシスはわずかに困ったような顔をした。

「ふむ。そうかい? 私が……君を忘れてしまったのなら、ひどく申し訳ないことをしたと思うのだが……
 けれど、私も、私のことを忘れてしまいそうなのだ。何にせよ、大切なことは、私が私を覚えていることなのだが……」
「……何かあったんですか?」

 フランシスの言っていることは支離滅裂でよく分からないが、忘却と記憶を暗示させる言葉が連発されるということは、もしかして、何らかの出来事が起こった後のフランシスと会話をしているのかもしれない。それが、彼が時折ほのめかしている暗い影の一部だというのなら、セイランは、それを今の機会に知りたいと思った。
 案の定、フランシスは、その顔に影を落とした。悲しげに睫毛を伏せ、片足で揺らしていた椅子を止める。

「これは……あまりにはっきりしないことなんだ……定かではなく、朧気だけれど、しかし、とても悲しいことなんだ……
 ああ……祈りは届かず、心は凍りついた! 純真だった心よ……なんという苦痛と後悔を味わったことか!」

 両手に顔を伏せ、まるで悲鳴のようにフランシスは叫んだ。その直後、椅子と共にフランシスの姿がフッと消えた。慌てて辺りを見回してみたが、濃い霧が出ている中に人らしき姿は見あたらず、静まりかえった庭園には生き物の気配すらしなかった。