「どうせ、そんなことだろうと思ってた」
「夢のこと? 皆の話によると、君は、守護聖の力を使って私の夢の中にいた、ということなのかい?」
「知らない。たぶんそう」

 ぶっきらぼうに言い、乱れた自分の髪を手ぐしで直す。

「本当に何も覚えてないの?」
「うん……」

 眉をハの字にし、恐縮そうに身体を縮めているフランシスをセイランは半眼で睨んでいたが、だんだんどうでも良くなってきて苦笑すると、ベッドの上に力無く置かれている彼の手を見つめた。先ほどの夢の中で、胸が締め付けられるほど血に濡れていた手である。もちろん、現実にあるのは血液に浸っていた気配すら見せない、フランシスらしい大きくて優しげな、清潔な手だった。
 かつては、その手で、自らの心を打ちのめしたのかもしれないけれど。

「覚えていないのなら、いいよ」
「そう、かい? あ、でも……」

 不意に彼が思いついたような声を出したので、セイランは、視線だけを彼に向けた。

「何?」
「“悲しい色”……というような言葉が聞こえたような気がするよ」

 自分が放った言葉を口に出され、セイランはぎょっとした。慌てて目を右往左往させ、いや、それは、とどもりながら言い返す。

「君が、なかなか目覚めないからだよ! 君を起こすには、何か喋らなくちゃ駄目だと思って」
「……」

 フランシスは、セイランの言い訳は聞かず、ぼんやりとした目つきで考え事をしていたが、肩をすくめると、セイランを見て小さく苦笑いを浮かべた。

「その後、私に向かって“起きてよ!”と言い続けていたよね?」
「え? ああ、うん……」

 それは夢ではなくここでの話だけれど、とセイランは頭を掻き、ベッドを横断するようにごろんと仰向けになった。まだフランシスがベッドの中にいるので、彼の両脚の脛に背中が載ってしまう形である。フランシスは驚いたらしいが、特に脚を引っ込めるような動作はしなかった。
 セイランは、ぼんやりと天井を眺めながら呟いた。

「……いいんだ、もう。君は目覚めたんだし」
「うん? うん……しかし、ごめんよ。思い出そうとしているんだが、他の言葉は覚えていないみたいだ」
「いいってば」

 フランシスの方に身体を向け、少し頭の位置をずらしてフランシスの脛を枕代わりにし、ベッドの上に小さくなる。フランシスは不思議そうな目でセイランのことを眺めていたが、くすりと微笑すると――その微笑は、いつもの微笑と変わりない、憂いに満ちた儚げなものであったが――少し身を屈めてセイランの方に腕を伸ばし、セイランの頭を優しく撫で始めた。
 先ほど威嚇したばかりなのに懲りない男だ、とセイランは呆れたが、もう抵抗することはしなかった。フランシスにとっては、見慣れた猫を撫でているような感覚に過ぎないのだし、結局、セイランにとってもフランシスに撫でられることは嫌ではないのだ。
 迂闊にも心地よさを感じつつ、セイランは、そっと目を伏せた。

「…………ねえ」
「うん?」
「僕は誰?」
「え?」
「僕のことを知ってる?」
「えっと……私が?」
「そう」
「う、うん……セイランでしょう?」

 名前を呼ばれ、セイランは目線を上げて、じいとフランシスの顔を見つめた。何の話?と目をぱちくりさせて戸惑っている彼の表情をよく観察しつつ、無表情のまま、もう一度問いかける。

「僕のこと、忘れてない?」
「うん? うん。セイランだよね?」
「君は夢の中で、僕のことを知らないって言ったんだよ」

 本当は、それは君が言ったわけではないのだけれど――と心の中で思っていることは、わざと口に出さない。フランシスは、そうなのかい?と心底驚いたように瞬きを繰り返した。

「君のことが分からなかったんだ?」
「そう。僕の心を傷つけた」

 ふと、お前など知らないと言われた時の衝撃と悲しみを思い起こして、セイランの胸が静かに痛む。だが、そんな態度を彼の前で素直に出すだなんてとんでもないと、わざと怒ったように口を尖らせてみせた。

「サイコテラピストのくせに」
「え……なんだかすごく腑に落ちないんだけど……ごめんよ、セイラン」

 セイランの傷ついたという言葉は本当で、それがたとえ夢であっても少なからずショックを受けたのだろうと分かったように、フランシスはセイランの髪を強く撫でつけた。セイランは、フランシスの手を受け入れながら黙っていたが、頭から彼の手を掴むと、ぎゅうと握りしめた。
 どうした、という顔をしているフランシスを見ながら、セイランはいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「いいんだ。君が今、僕のことを覚えてるなら。この先も、覚えてるなら」
「う、うん。ちゃんと覚えているよ、セイラン」
「名前を呼んでよ」

 真剣な瞳で、セイランはフランシスを見た。フランシスは、その意図を探るようにセイランを眺め返していたが、セイランの心が理解できたのか、ふっと微笑むと、セイラン、と低く、波紋のように深く響き渡る声で、その名を何度か呼んだ。
 セイランは、心地よい彼の声を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。視界を閉ざした瞼の裏にあるものは確かに闇だったが、今訪れた闇は、夢の中で呑み込まれた闇とは違う、どこかに光がある柔らかな闇だった。今がまだ陽の高い時刻であるせいかもしれない。だが、それは、もしかしたら、目の前にフランシスという男の存在があり、彼が生きていて、ひどく心を安心させる声音で自分の名を呼び続けているからかもしれなかった。
 彼の声をもう少し聞いていたいと思って、セイランは何度かねだった。僕の名前を呼んで、君が僕の名前を忘れないように、僕が僕の名前を忘れないように。僕たちの間には確かに繋がりがあったのだと記憶に焼き付けてしまえるほどに。決して思い出が失われないように。僕の名前を呼んでいて、この先も、いつまでも。