――ふと、声が聞こえたような気がした。

「……ン」

 それは、遠くから鐘の音が響き渡ってくる感じに似ていた。その音の正体を知りたくて、必死に目を開けようとする。

「……セイ……! セイ……ン……」

 今まであんなにも暗かった闇を打ち破る光があるというのなら、自分はそれに辿り着かなければならないと思った。そして、その光によって、彼を自分の元へと導かなければいけない。

「……セイ……ラン……セイラン様!」

 自分は、まだこの先も彼と生きていたいと思っているから。
 彼に生きていて欲しいと願うから。

「――――セイラン様!」

 電撃のように、名を呼ぶ声音がセイランを眠りから覚ました。目を見開くと、見えたものは暗い色のシーツだった。周囲からざわめきが聞こえる。目覚めた!とか、よかった!だとか言っているようだった。
 半ば呆然としながら前を眺め、そのうち気が付いてパッとフランシスの方を見やる。彼は、依然枕に頭を載せたまま眠っていた――セイランが彼の私室に来た時と変わった様子は無い。背筋に悪寒が走る。

「セイラン様のおっしゃった通り、つい先ほど薔薇の花が散ったのです。とっさに声をかけましたら、お目覚めになったので良かった……」

 聞き覚えのある女の声がしたが、それが誰かということはどうでも良いことだった。セイランは少し腰を浮かせてフランシスを覗き込むと、夢の中のように片手を握りしめたまま、もう片方の手でフランシスの頬を軽く叩いた。

「……フランシス」

 低い声で呼びかけながら、セイランは、固く目を閉じたままでいるフランシスの顔を睨みつける。

「フランシス! 起きろよっ」

 肩を揺さぶるが、反応は無い。周囲もセイランの行動にどよめき、セイラン様?と不安げな声を出している。
 セイランは目に涙を浮かべながら、何度もフランシスの頬をパシパシと叩いた。

「起きろよ、フランシス! 僕がなんのために君の元に行ったと思ってるんだよ! なんで僕だけ戻って来てるんだ……闇の守護聖なら、君らしく、僕の命なんかさっさと吸い取れば良かったんだよ! 僕なんかより君の方がずっと生きる価値があるだろっ!」

 喉をびりびりと震わせながら、目尻には涙が浮かんだ。

「起きてよフランシスっ!!」

 声を張り上げた、その時。
 不意に、自分の手が握り返される力を感じ、セイランは口を噤んで自分の手元を見た。自分より大きい彼の手の指先が、わずかに動いている。
 セイランは、瞬時に希望が胸に広がるのを感じ、フランシスの顔を再度覗き込んだ。

「フランシス?」
「…………」

 微かなうめき声と共に、彼の唇が小さく動く。険しげに眉がひそめられ、ゆるゆると瞼が持ち上がった。彼の美しい青灰色の瞳が、睫毛の合間から覗き始める。
 セイランは、途端に脱力してベッドに突っ伏した――彼と繋いだ手は、そのままに。

「フランシス様! ああ、良かった……」

 ようやく主人が目覚めたことで、周囲にいた館仕えの者たちは安心したようだった。一体何があったのですか、という疑問を投げかける不思議そうな主に対して、実はこういうことがあったのですよ、と一部始終を話し始めた。その間、セイランはシーツに顔を埋めたまま目を閉じていた。わずかに溢れていた涙がベッドに染み込んでいくのを感じながら。
 じきに、セイラン?という呼びかけが聞こえた。いつもの、あの優しい響きを宿した低い声に、セイランは柄にもなく感動してしまった。彼に呼ばれることがこんなにも心地よいとは、僕って悪趣味だなと心の中で毒づき、ばっと顔を上げるとフランシスを思い切りねめつけた。

「この馬鹿フラっ! 遅いよ!」
「な……何が?」

 ベッドに上半身を起こして座っている目の前の男は、何があったのかいまいちよく分かっていない様子でセイランを見つめ返してくる。きょとんとしている無邪気な目が余計に腹立たしく、セイランは繋いでいたフランシスの手を大げさに振り払った。

「君、覚えてないの!?」
「え? あ、ああ、なんだか、気を失っていたみたいだね」
「そんなレベルの話じゃないよ! 君も僕も、命の危機だったんだよ!」
「えぇっ、そうだったのかい?」

 心底びっくりした様子で目をしばたたかせている男に、セイランは再び脱力してベッドの脇にへたり込む。

「セイラン!?」
「もうほんとやだ……」

 喜びやら悔しさやら怒りやらで浮かんだ涙を手でこすりながら、セイランはうなだれる。

「なんで僕はこんな男のために……」
「な……なんだかよく分からないけれど、ごめん」

 心配そうに頭を撫でてくるフランシスにますます腹が立ち、キィー!ともシャー!とも表現できる激しさでフランシスの手を拒む。猫のように威嚇されたフランシスは驚いて手を引っ込め、困惑気味に首をかしげてみせた。

「? 一体何があったんだい? 夢を見ていたような気もするけれど……よく覚えていないんだ」
「だろうね……もういいよ」

 力無く首を横に振り、セイランはのろのろと腰を上げ、彼が座っているベッドの横に腰掛けた。周りにいた館の使用人たちは、気を遣ったのか何なのか、いつの間に全員部屋からいなくなっていた。危険を察知したのかもしれない。
 こういうところで気を遣われると僕としても複雑なんだけどね、とセイランは彼らが消えていった私室のドアの方を睨みつけ、肩を落として、はあ、と小さく溜息をついた。