日の曜日、朝から嫌な予感がしていた。
 普段、セイランは、時計が鳴ったり女中たちが起こしに来てくれなければ滅多に自分からは目を覚まさないのだが、その日は目覚まし時計が騒ぎ出す前に起床してしまった。何か悪い夢を見た時のような妙な胸騒ぎがしたのだ。だからと言って夢の内容は思い出せず、夢を見たかどうかも定かではない。ベッドの上で上半身を起こして考え込んだ後、セイランは、おそるおそる床に片足を下ろした。乱れた寝間着を手で直しつつ、洗面所で顔を洗ってタオルで拭っていると、案の定、その嫌な予感は的中したのだった。

「フランシス様が」

 駆け込んできた女中たちの話によると、フランシスの館の者が、こちらの女中にセイランを呼ぶように伝えてきたらしい。両館に仕えている者たちは、セイランとフランシスの仲が良いということに倣って不思議と気が合うらしく、従者同士で個人的なやりとりをしていることもあった。そのため、フランシスの館の者もセイランの館に問い合わせをすることに抵抗が無いらしく、フランシス様といえばセイラン様、という考えで、相手方の館の主を呼んだらしかった。が、実際、呼ばれて来てみてベッドに横たわったまま目を覚まさなくなったフランシスを目前にすると、セイランに出来ることは何も無かった。
 伝達を聞き、慌てて寝間着姿から着替えたセイランは、馬車を飛ばしてフランシスの私邸を訪れた。私室に飛び込んでみると、館に仕えている者たちが全員集まり、不安そうな顔をしてベッドの上の主人を取り囲んでいた。蒼白になってセイランがベッドに近づき、様子を窺ってみると、暗い色のシーツの上に、フランシスが昏々と眠る姿が目に入った。主人の相方が来たということで周りが空けてくれた空間に入り込み、パシパシと眠る男の頬を叩いたが、全く反応をしなかった。呼吸をしているくせに刺激を与えても反応を見せないということは、眠っているのではなく、昏睡しているのである。
 セイランは、顔をますます青くして、近くにいた若い女中に振り返った。

「いつからこうなんだい?」
「い、いえ……朝、いつもの時間帯に、フランシス様に朝食を運んで参りましたら、普段起きていらっしゃるフランシス様が、珍しく眠ったままでいらしたので……」

 同じく顔を青くさせ、小さく震える手を胸元に当てて言う女中の肩を、隣にいた先輩らしき女性が支えてやる。そして今度は、その中年の女中が後を続けた。

「呼びかけても返事が無く、揺すっても反応が無いので、意識不明の状態ではないかと思い、わたくしがセイラン様の邸の者にお伝えいたしました」
「医者は呼んだのかい?」

 反射的に尋ねて、セイランはすぐに後悔した。精神科医のフランシス自身が、内科医でもある。自分のことは自分で処理してきた人間だろうし、低血圧で貧血気味な体も自身で管理しているという話を聞いた。聖地でも精神科医として働いているため、彼の知り合いの医師仲間はいるが、そもそも“神もどきが住む楽園”である完璧な聖地に重大な病が発生する可能性が無い――すなわち、聖地における医師の数は需要に比例して、数えるほどしかいないのである。
 数が少ないからと言って医師を呼べないことはない。だが――

(“守護聖”なんて診たがらない)

 得体の知れない神のような存在を診断するプレッシャー、誤診の責任の重さは計り知れないだろう。そして何より「守護聖がお倒れになった」という事実は、聖地、いや、宇宙全体を揺るがすことになりかねない。下手に公にするべきではない。

「いえ、それは……」

 セイランの考えの通りに、女中は首を横に振った。セイランは、そうだね、と暗黙の了解で頷き、フランシスを再び見やった。目立った外傷が何も無いからこそ、刺激を与えても反応をしないことが不安だった。耳元で呼びかけても揺すっても駄目で、試しに手の甲をつねってみたが、うんともすんとも言わず、ただ固く目を閉じて昏睡しているだけだった。
 だが、息はあるし、力なくシーツの上に横たわっている腕に触れれば、体温もある。死んでいるわけではないのだという事実にホッとしつつも、セイランは、フランシスをこのまま放っておくのは危険だと考えた。もし守護聖として何らかの問題が起き、サクリアの異常が起きているのだとしたら、すでに研究員の者やレイチェルから問い合わせがあるはずであり、彼らはセイランよりも早くフランシスの館にすっ飛んでくる。その様子が無いということは、彼のこの状態は、守護聖としての闇のサクリアとは直接関係の無い事態ということだ。
 しかし、だとすれば、一体何が原因なのか。ふと、同じ属性の守護聖であるクラヴィスがセイランの脳裏をよぎったが、彼を呼べば両聖地を含めた大事になる可能性が高い。間違いなく向こうの首座がご登場になるだろう。
 セイランは、眉を寄せながら考えた。なせだか分からないが、事件を引き起こしているフランシス自身が、大事になること望んでいないような気がするのだ。

「セイラン様……お医者様をお呼びした方がよろしいでしょうか」

 黙っているセイランにだんだん不安が増してきたらしく、年配の女中が不安げな声で言った。セイランは振り返らずにフランシスを見つめたまま、いや、とかぶりを振った。

「確かに、これは普通の事態じゃなくて、医者を呼ぶべきなのかもしれないけれど。
 でも、そんな簡単なことじゃない気がするんだ」

 そんなことを勝手に感じているなど自分のうぬぼれかもしれないが。そう思いながら、セイランはフランシスの左手を取って、両手でそっと握りしめた。

「……もし、サクリアは関係無しに彼がこうなっているのだしたら、僕は守護聖として彼と近い者だし、彼とシンクロ出来るかもしれない」

 セイランの“シンクロ”という言葉に、一体それはなんだと一同はどよめいた。だが、セイランが集中した様子でフランシスの手を握りしめて目を閉じている姿を見て、神妙な空気を感じ取り、おのおの口を閉じ始めた。
 セイランは、意識を集中させながら、自分がサクリアを発動させる時に使う“道”を頭の中で構成した。内に眠る力を放出する時に、おそらくどの守護聖もしているはずの行為である。

(光のように、緑が闇に反発することは、ない)

 なぜなら緑に闇は必要なものだから――。セイランは、目を閉じたまま、沈黙している使用人たちに言った。

「これから、僕も眠ったようになると思う。もし何かがあって、レイチェルや他の守護聖を緊急に呼び出す必要が出たら、僕が、サイドボードにある花瓶の薔薇の花を不自然に枯らすよ。それが合図だ」

 口早に言い放ち、周囲の者たちの返事を待つ前に、セイランは意識を手放した。