「フランシスってさ、よくキスするよね」

 野原の上にゴロゴロと寝そべり、グラシン紙の袋からチョコレートの欠片を取り出して食べているセイランが、不意にそんなことを言った。
 よく晴れた休日の午後のことである。午前中フランシスの館を訪れたセイランは、「君の館の裏の丘を貸して」と言って敷地の現持ち主であるフランシスの返事も待たず、テラスを横切り、その先の小径を行ったところの秘密の丘の上へと早々に上って行ってしまった。最近そこが彼の最もお気に入りの場所らしく、執務時間内でも宮殿を抜け出しては勝手に入り込み、このように寝転がっていることがしばしばあった。放っておいても全く問題は無いので、フランシスは館の私室で精神医学会に提出するための書類を作成したあと、適当に昼食を食べ、暇になったので、なんとなくセイランの様子を見に行こうと丘に上ったのだった。
 セイランの傍に座り、遠くまで広がる森の緑のグラデーションをぼんやりと眺めていたフランシスは、問いかけてきたセイランにゆっくりと目線を移した。

「……そんな頻繁にしてるかな……」
「女の人を見かけると、所かまわず手の甲にキスをしてるじゃないか」
「おやおや……」


 人を尻軽男みたいに言わないでくれるかい、と、フランシスは眉をハの字に開いたが、セイランは逆に面白がり、仰向けからうつぶせに寝る形になって、にんまりと笑った。

「事実だろう?」
「手の甲、にはね」
「彼女たちが喜ぶから?」
「まさか。私は真剣に女性という生き物に敬愛を抱いているのですよ」

 ですから八方美人で浮気な男と思われるのは非常に残念なことです。そう流暢に言って肩をすくめるフランシスをうさんくさそうに眺め、セイランは、チョコレートの欠片を袋から一つ取り出して口に放り込む。

「手の甲へのキスには、敬愛の意味があるの?」
「うん? うん。というより、挨拶代わりだね。私の故郷では案外見かけられる光景だと思うけれど」
「へえ……」

 セイランは、もぐもぐとチョコレートを噛み、十分に味わいつつもどこか遠い目をして一点を見つめていたが、じきに口の中のチョコレートが完全に溶けきると、再びフランシスの顔を見上げた。

「唇には、しないわけ?」
「は?」

 思わず目をぱちくりさせて、フランシスはセイランを見る。

「……それは、まあ、誰彼かまわず女性の唇にしていたら、それこそ尻軽男だけれど」
「唇にするキスは愛情の意味合いだよね?」
「うん」
「最近、唇にはした?」

 問われ、フランシスは困惑して眉をひそめた。一方のセイランは、何かに強い関心を持った時の澄んだ青い瞳をしているだけなので、別にからかおうと思ってフランシスに問いかけをしているわけではないようだった。
 フランシスは、特にここで嘘をつく必要もないな、と念のため胸中で確かめてから、ううん、とかぶりを振った。

「久しくしていないね。女性とは、時々望まれたときに寝ているけれど」
「さらりと爆弾発言ありがとう。あれ? でも、ということは、女性と寝ていても唇へのキスは」
「しないよ」

 至極当然のことのように放たれた回答に、セイランは、純粋に驚いて目をまん丸くした。

「え?
 女性を抱いているのに、唇へのキスは一切無し?」

 そんなことが可能なの?と、今度はセイランが困惑し、眉を寄せた。フランシスは、平然として肩をすくめ、

「だって、好きでもないのに唇にキスする必要は無いだろう?」

 などと言った。
 だんだんと好奇心をかき立てられたセイランは、身体を起こしてその場に座り込み、でもさ、と、そのあと少し考えてから口を開いた。

「でも普通、求められるよね? 流れ的に」
「流れ的にはね」

 あっさりと頷くフランシスを見て、内心わくわくしながら後を続ける。

「それでもしないの?」
「しない。そういうところは、私は、かなり頑固なんだよ」
「どうして?」
「さあ……」

 フランシスは、意味もなく空に視線をやり、

「もったいないからじゃない?」

 その回答に、セイランは大笑いした。せっかく座ったというのに再び崩れ落ちて草むらの上に倒れ込み、腹を抱え、君ってほんとに最低だね、と目に涙を浮かべながら苦しそうに笑っている。フランシスは、自分の台詞によって呼吸困難になっているセイランを眺め、再び肩をすくめた。

「そこまでしてあげる義理はないでしょう? 私が抱きたいから抱くわけでもないし」
「うん、うん……君は、そうだよね……」

 ひいひい言って頷き、セイランはようやく息を整え、

「君らしくていいよ」

 ああ久々にこんなに笑った、と再度うつ伏せになり、少し肩を起こして地面に頬杖をつく。

「君のそういうところが好きだよ」
「それはどうも」
「でもまあ、確かに、恋愛における最高敬意の唇へのキスは、確かに唯一の人にしかあげられないね。つまり、君にとって、手の甲へのキスは本当に挨拶程度にすぎないということだ」
「だから、さっきからそう言っているじゃないか」

 苦笑し、フランシスは開けっ放しになっているセイランのチョコレートの袋を取り上げて、その口を折った。甘い香りに誘われた蟻が入ってきてしまうのではないかと、ふと心配になったからである。

「でもねえ」

 セイランはフランシスの手元を見ながら、いたずらっぽい笑みを浮かべ、

「君は全ての女性に敬意を払って“挨拶程度で”手の甲へキスをしているのだと思うけれど、結局、最も望んでいる唇へのキスはお預けされてしまう女性側からしたら、君のしていることはひどく許し難いことだと思うよ。それを分かっていてやってる君ってほんと、性悪だよね」

 再び笑い出しそうになって、目元に浮かんだ涙を指で拭う。フランシスは口を閉じたチョコレートの袋を地面に置き、苦笑したまま溜息をついた。

「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてるよ。心底褒めてる。君ほど女性の扱いが上手な人を見たことが無いよ、オスカー様も顔負けさ。オスカー様は、君よりも“手が早い”からね」
「しばしばオスカー様の比較対象にされるのはなぜなんだい。私はだいぶあの人とは違うタイプの人間だと思うんだけど」
「守護聖という数少ない人員の中で神鳥と聖獣を対決させようとしたら、傾向的に比べられやすいんだよ。他の連中は、君についてちょっと勘違いしている節もあるし。
 でもまあ、オスカー様の方が君より女性に優しいってことは、確実に言えると思うね」
「ひどい言われようだ。当たってるけど」

 地面をばしばしと叩き、セイランは再び大笑いした。

「ああ、もう……君って奴は。大好きだよ」
「いたく気に入られたようだね」

 フランシスは微笑し、光栄なことです、と自分の膝の近くにあるセイランの頭をぽんぽんと撫でた。セイランは驚いたようで、笑い声をぴたりと止め、不思議そうに目を丸くしてフランシスを見上げる。
 猫のような瞳でじっと凝視してくるセイランに気が付き、フランシスも動揺に目をしばたたかせて、彼を見つめ返した。

「……うん?」
「……ねえ」

 フランシスから目線を外さないまま、セイランは訊いた。

「友情のキスって無いの?」
「友情の、キス?」

 突然の問いに、フランシスは一瞬、停止したが、

「……ある、といえばあるけれど。
 ビズのこと? これは普通、女と女か男と女でするものなんだけど」

 戸惑いながら言ってやると、セイランはますます不思議そうにして、今度は眉間にしわを寄せた。

「ビズって、頬と頬をくっつけるやつ?」
「うん。非常に親しくなれば、男同士でもするけれどね。でも、これは、さっきの手の甲とはまた違った系列なんだけど。
 友情は、確か額じゃなかったかな……」
「額」
「祝福という意味合いもある。相手のことを大切に思っているということを示すための行為だよ」

 セイランはむっくりと起き上がり、じっとフランシスの額を見て、

「じゃ、してもいい?」

 と言った。
 フランシスは唐突な申し出に、これは何か意図が合ってのことなのか?と先ほどよりも長く思考を停止させたが、サイコテラピストとして驚愕というものに大した動揺を抱きづらい彼は、すぐに冷静になって、ぎこちなく首をかしげてみせた。

「……君が?」
「あれ、駄目?」

 一方のセイランも、至極冷静といった様子である。どうやら興味と好奇心のみでの申し出だったらしいが、それでも、フランシスは驚いた。目を右往左往させながら、首の後ろに手を当てる。

「いや、駄目じゃなくて、その……
 君にそれだけ気に入られるのは、なんだかすごいことなのではないかと思って」
「……今更……」

 半眼になって、セイランが疑わしげに睨んでくる。いや、今更も何も、とフランシスは混乱したが、セイランにそれほどまでの友愛を抱いてもらえるということは、いっそ名誉と言えるほど貴重なことなのではないか。
 しかし、それでも歓喜よりは戸惑いの感情を抱いて、フランシスは、小さく頷いた。

「君がそうしたいなら、どうぞ」
「じゃ、失礼」

 セイランは、さっさとフランシスににじり寄ると、座っているフランシスの前で立て膝をし、彼の左肩に右手を置いて、邪魔な彼の前髪を左手で軽くかき分けた。そして、音も立てずに素早く額にキスをすると、再びにじり下がって、フランシスの顔を見下ろした。
 フランシスは、セイランが近づいたことで反射的に伏せていた睫毛をゆっくりと上に持ち上げた。彼は、女のように長いと周囲から言われているセイランよりも、実はずっと長い睫毛を持っていて、夜色の髪と同じ色をしているせいかひどく重たげに見え、妖艶で、美しかった。
 ゆるゆると瞼が上がるその動作をどこか夢心地で眺めながら、セイランは、ぼんやりと呟いた。

「……僕をこんなに表情豊かに出来る人は、そうそういないんだよ」

 身体を支えるために彼の左肩に置いている手に少し力を込めて、緩慢にうつむく。

「だから、君は僕と同じくらい、生きていておくれ」

 そして、今の言葉に対して浮かべられたフランシスの表情が決して見えないように、瞼を閉じた。