時々、セイランは勤務時間内だというのに執務室からいなくなる。その行方を知る者はおらず、しばしばレイチェルの怒濤の声が宮殿の廊下に響き渡るが、誰に尋ね回っても「分からない」と首を振るだけだった。むろんその矛先はフランシスにも向けられていて、キーキー言いながら「アナタ仲がいいんだから知ってるでしょ!?」と喚くのだが、フランシスはいつもの微笑を浮かべ、ひたすら首を横に振っていた。フランシスは大抵、彼の行き先をなんとなく把握していたが、それも確実とは言えないことだし、自分は嘘をついているわけではないと思いながら、彼の居場所など知らないとかぶりを振って見せるのだった。はじめ、レイチェルやその他の守護聖は、本当はフランシスはセイランがどこにいるかを知っており、セイランに口止めされているから真実を口に出さないのだと疑ってかかるのだが、実際、フランシスは本当に彼の居所を知らないので、徹底して穏やかに「知らされていないので、知りません」と言い続けていた。すると、彼らもそれを信じ、他の仕事が滞ってしまうことだし、と、結局は気まぐれな青色の猫を探すのを諦めて、各自の執務に戻るのだった。レイチェルは、廊下の向こうへと消えゆく最後まで「今度、仕事を倍にしてやるんだから」とぶつくさ呟くのが恒例だった。
 聖獣の守護聖たちの勤務時間は、一応定められてはいたが神鳥の宮殿ほど厳密ではなく、その日の仕事が終わって明日に響くことがなければ、早退することも可能だった。そもそも、守護聖が宮殿に出入りするための監視システムは無いに等しく、自由奔放な性格が集まってしまったまとまりの無い聖獣の守護聖たちに厳格な規則を設けることはストライキを発生させる原因になりかねないと思ったのだろう、女王とレイチェルは「他人の仕事に支障や迷惑が出なければ、あとは自由にしてよい」という風潮をこの聖地に流すことに決めたらしかった。フランシスから見ても、それは正解だった。あの度を超えた気まぐれ猫セイランがこの聖地を“まだ”飛び出していないことも、その証拠なのだろう。とは言っても、完全に仕事を終わらせてから自分の館やクリニック(フランシスは副業として聖地のメンタルクリニックで非常勤医師を務めている)へ行くフランシスと違い、セイランは仕事が途中であってもどこかにふらりと消えてしまうのだが。だから、レイチェルが毎度カンカンになって怒るのである。
 その日の分の仕事を早々に終わらせ、フランシスは、うららかな昼過ぎに馬車に乗って自分の館へと帰宅した。自室に戻り、仕事着を脱いで七分袖の黒いシャツと灰色のズボンに着替えると、再び外に出て、普段テーブルを置いてフランシスがお茶を飲んでいる館の南側の大きな木張りのテラスを突っ切った。段を下りて色鮮やかな野花の生い茂る小径を歩いてしばらく行くと、開けた小さな緑の丘があって、その場所に、やはりセイランは寝転がっていたのだった。
 フランシスはのろのろと丘に登ると、短い草むらの上に仰向けに横たわっているセイランの顔をのぞき込んだ。眠っているのかと思ったが、彼は先ほどから起きていたようで、自分の顔に陰を作ったフランシスを無表情で見つめ返した。
 フランシスは、少し笑みながら言った。

「レイチェルが探していたよ」
「……だろうね」

 とりわけ興味なさそうに、彼は返事をした。フランシスはセイランのそばに腰を下ろすと、その場に脚を伸ばして座った。

「今日は、ここいたんだね」

 そよそよと吹く風を顔に受けながら、フランシスは眼下に遠くまで広がる森を見つめた。渓谷が近いせいで、その木々には深い緑から浅い緑までの美しい色むらがあった。それ以外には、遠い彼方の地平線を形作る、薄い色をした雲の広がる青い空しか見えず、無論のこと、木々の生い茂る渓谷を歩き回る人の姿などありはしなかった。

「……今日は、もういいや」

 不意にセイランが言ったので、フランシスは彼に視線を移した。フランシスが腰を下ろしている近くにセイランの頭があり、彼のつま先はフランシスが見つめていた森の方角へと向けられている。
 セイランのその顔は、少し眠たげだった。

「いい、って、なにが」
「仕事。宮殿には戻らない」

 目を伏せ、ぶっきらぼうに彼は言った。今の台詞はよく耳にするものだったので、フランシスは何も返さなかった。
 しばらく沈黙があった。フランシスは、腹の上で組まれたセイランの手を見つめ、セイランは、空を見ていた。チチチという鳥の鳴き声がひっきりなし聞こえ、そのほかには、風が耳に小さなざわめきを立てる程度で、あとは何も無かった。この秘密の丘を訪れる人間もセイランとフランシスくらいだったし、何か楽しめるものがあるわけでもないので、フランシスは足下にあった草を引き抜き、それを手元でいじって時間を過ごしていた。
 フランシスには、こういった時間の過ごし方が分からなかった。嫌いではないが、好きなのかどうかも分からなかった。おそらくシティで生まれ育った所以だろうと思っていた。このような緑の多い場所を目の当たりにしたのは聖地が初めてであったし、確かに自然の多い場所は気持ちも晴れやかになって精神衛生上とても良いのだが、果たしてそこで何をすべきなのか、彼には元から経験が無いので分からなかった。セイランは、フランシスとは真逆で、かつてから自然の多い場所で過ごすことを好み、自然の近くでしか生きてこなかったらしく、むしろフランシスにとってこの無意味な時間こそが、彼にとっては最も意義のあるひとときのようであった。だからフランシスは、セイランが仕事を放り出して他人の敷地内のお気に入りの場所で勝手に過ごし始めることに関して、何も言わなかった。最初この場所を見つけたのはフランシスで、セイランに教えたところ「遠くに見える森の緑のグラデーションは何ものにも代え難い」などといたく気に入ったらしく、しばしば宮殿を抜け出しては許可無くフランシスの裏庭に忍び込んでいるのだった。青色の猫が勝手に入り込んでいると館の者も気が付き、フランシスに言及してきたが、フランシスは「何事も咎めてはならない」と召使いたちに言い聞かせて、自分もまた彼に注意をしなかった。館を荒らし回るわけでもないのだし、猫は、猫らしく自由に動き回るのが良いのである。

「……もう。
 飽きた」

 ふと、セイランが呟いた。フランシスは手でちぎっていた草をぱらぱらと地面に落として、彼に尋ねた。

「なにが」
「ここ」
「聖地?」
「うん」

 幾分不機嫌そうに眉を寄せて、彼は額に片腕を載せた。

「つまんないよ。神様の役目」

 ああ、そこに繋がるのか、とフランシスは心の中で納得し、

「そうだね」

 と相づちを打った。
 セイランは、仰向けから横向きにフランシスの方に体を倒して、上目遣いに青の瞳でフランシスを見つめた。

「逃げたいんだ、そろそろ」
「うん」

 フランシスはもう一本の草を摘み取り、それを小さくちぎっていく自分の両手を見つめたまま、頷く。

「逃げればいいよ」
「君、一緒に逃げてみない?」

 言われて、フランシスは目を上げた。セイランは、特に大した感情を伴って言ったわけではないらしく、相変わらずの無表情だった。

「私が?」
「うん」
「あいにく私は、ここが嫌いではないから」

 淡々と言ってやると、セイランは、そうだった、と呟き、再びごろんと仰向けになった。組んだ手を頭の後ろに敷いて、しばらくのあいだ空を眺め、不意に、

「……狂いそう」

 そう言った。

「神様なんて」

 軽蔑を込めて言われた言葉に、フランシスは、そうだね、とちぎった草を再度ぱらぱらと落としながら、静かに同意した。

「滑稽だね」