フランシスは、森の中にいた。
 日の曜日、午前中のセイランからの呼び出しがあった。「僕のお気に入りの森の湖で一泳ぎしたいから、君も付き合わない?」という、館の玄関先での突然の宣告がきっかけだった。もともと夜型かつ低血圧なせいで、休日の午前中から動き回ることはフランシスにはつらかったのだったが、わざわざ館にまで来て誘ってくるセイランの少々乱暴な押しかけを断ったら断ったで面倒なことになるため、しぶしぶ承諾した。セイランも、そろそろフランシスが起きている頃合いだと踏んで訪ねてきたのだろう。自分が寝不足なのがいけないのだからと納得させて、フランシスは、セイランが調達した馬車に乗り、彼のお気に入りの森の湖とやらを訪れたのだった。
 湖は――という以前に、森は、セイランの館から西にしばらく行ったところにあった。小さな森であるが、林と言うにはかなりの木々が生い茂っており、道も無いので、下手すると迷う危険性があった。森の手前の野原で馬車から降りると、セイランは慣れた様子で森の道無き道を進んでいき、時おり、息を切らしているフランシスに振り返って「君って本当にインドアだね」と文句を言ってみせた。いや、君も芸術家という意味で相当なインドアだけど、という喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込み、低血糖(朝食を取る時間がなかった)でかなりしんどい身体を引きずりつつ、どうにかセイランの背中についていき、森の中心に位置する小さな湖に辿り着いた。
 ぼぼ円形の湖で、直径は三十メートルに満たない程度だったが、かなり深いらしく、湖の中心に向かって水の色が濃くなっていた。真ん中はエメラルドグリーンに近い色をしており、遠目から見ても、そこが足の着かない場所だと分かった。中に何が棲んでいるか知れない、こんな物騒な所で泳ぐのかとフランシスは不安に思ったが、セイランはフランシスに断りもせずさっさと服を脱ぎ捨て、中に履いてきた膝丈の白いズボン一着になると、迷うことなく湖の中に飛び込んだ。
 説明も断りも無しに早速すいすいと泳ぎ始める若々しい青年を見ながら、フランシスは単純に呆れた。だが、彼のすることにいちいち驚いていては、こちらの身が持たない。湖の岸辺、短い草の生えている地面に座り、持参した紙袋――これにはセイランが持たせたタオルが入っている――を置き、ズボンのポケットから文庫本を取り出して、それを開いた。
 しばらくの間、セイランは湖全体を満遍なく使って泳いでいたが、フランシスの前にまで戻ってくると、水中で何やらごそごそやって、履いていた水着を野原の上に放り投げた。びしゃりという水の重さを伴った音で文庫本から顔を上げたフランシスは、投げ出された水着を見て度肝を抜かれた。つまり、彼は水中で全裸になったのである。フランシスの心境を察したらしいセイランは振り返ると、平然とした様子でひょいと肩をすくめて見せ、

「だって普段、あんなの履かないしさ。君が気にするかなと思って着けてきたんだけど、邪魔だし」

 などと言い、再び湖の中で潜ったり浮いたりし始めた。元貴族のフランシスからすれば、身内や恋人でもない人間に素肌、しかも全裸を露呈するなど信じられないことであったが、もとより品は良いが根は野生児という芸術家セイランのことである、彼にとっては着衣した状態にも全裸でいる状態にも大した違いは無いのかもしれない。そう一人で納得し、再び文庫本に視線を下ろしていると、セイランがのそのそと岸辺に上がってきた。美しくほっそりとした白い肢体が目に入り、フランシスは思わず彼の身体をまじまじと眺めてしまう。はっと気が付き、持ってきたバスタオルを袋から取り出してセイランの方に投げてやると、彼は、ありがと、と言いながら受け取って、それを肩から羽織った。

「ああ、泳いだ」

 溜息混じりに言いながら、フランシスの隣に座ってくる。フランシスは文庫本を横に置き、濡れて貼りつく髪を指先で払っているセイランの横顔を見て、ふ、と小さく笑った。

「君の方が私よりアウトドアなのは、確かだと思う」

 セイランは、つんとした表情でフランシスを一瞥してから、湖の方を見た。

「そりゃそうだ。君は不健康だよ」
「私が動かなくても太らないのは、仕事による精神疲労のおかげなんだ」
「精神科医のくせに」

 微かに苦笑し、顔をタオルで拭きつつ、セイランは深い息をつく。

「君も、泳げばいいのに」
「私が?」

 わざとらしく目を丸くし、フランシスは再び「私が?」と言って、肩をすくめた。湖で泳ぐように人間に見えるのかい?と笑むフランシスを、セイランは軽くねめつけた。

「……君の場合、入水自殺に見えるかもしれない」
「! あははっ」

 そうかもしれないと、フランシスは思わず声を上げて笑った。

「その時は、セイラン、君が助けてくれるのかな」
「はあ? 僕が?」

 セイランは呆れた様子で嘆息し、隣でニヤニヤしている男を半眼で見つめる。

「きっとね、“死ぬなら僕のいないところで死んでよ!”って遠くからぶつぶつ言って、助けに入ると思うよ……」

 セイランが溜息混じりの呟きに、フランシスは「想像出来るなあ」などととのんきに返して、先ほど横に置いた文庫本を再び取り上げ、意味もなくパラパラとめくり始めた。

「君が面倒くさくないように、泳ぎの練習をしなければね」
「君、泳げないの?」
「シティでは泳ぐ必要が無かったから。勉強や仕事が忙しすぎて、バカンスにもろくに出かけられなかった」

 子どもの頃から見慣れている、小難しい文字ばかりが並ぶ文庫本を閉じ、それを元あった懐に仕舞った。毎度のこと、フランシスが読んでいるのは思想書や医学書で、このような書物を読んでいて自分は一体何が楽しいのかと思うのだが、考えてみれば、幼い頃からこういった趣旨の本しか読んでいなかった。そう言うと、周囲の人間は「君は文学向きの人間かと思っていた」などと目を丸くするのだが、たとえば小説にある恋愛などのロマンチックな状況は、フランシスの場合、現実で十分起こりうるので、いちいち文学を読みふけって空想に浸る必要は無かったのである。
 昔から子どもらしくない子どもだったと憂鬱に感じつつ、セイランに意識を戻す。タオルを上から被った姿で体育座りをしている彼は、考え込むような目つきで森をじいと眺めていた。
 不思議に思い、フランシスは彼に声をかけた。

「セイラン、どうしたんだい?」

 疲れた?と続けて訊く。すると、セイランはハッと瞬きをして、驚いた様子でフランシスを見た。

「ん、ああ、いや……ごめん。森の声がして」
「森の声?」

 意味深長な言葉に、反射的に聞き返す。青年は真面目な顔をしてこくりと頷き、

「聞こえない? 植物の声」

 などと言ってくる。
 彼の口から出るにしては脈絡のない言葉である。フランシスは、不可解なことを口にする青年を見たまま固まったが、彼が“緑の守護聖”であることが不意に脳裏をよぎると、なるほどと相づちを打ってみせた。

「君には聞こえるのかい? その……何かが」
「うん」

 セイランは、その“森の声”とやらに耳を向けるかのように、湖の周りにある木々をゆっくりと見回した。緑の守護聖にはそういった特殊な能力があるのだろうかと好奇心を駆り立てられ、セイランの横顔を見ながら続けて尋ねる。

「それは、どんな声なんだい?」
「うーん、難しいな。音じゃないし」
「音じゃない?」
「頭の中に響いてくるから、音声でも音でもなくて、言葉でもない……」

 半ば意識が森の声とやらに行っているせいか、はっきりしない口調でセイランは答えたが、じきに「あ、聞こえなくなった」と呟くと、自分を見つめていたフランシスに視線を合わせた。

「でも、悪い響きじゃなかった。むしろ、君たち楽しそうだね、みたいな感じで僕たちに話しかけていたよ」
「へえ。君には、そういう能力があるのかい?」

 あえて守護聖であることに触れないで問うと、セイランは、緑の守護聖だからじゃない?とフランシスが予想した通りの台詞を吐き、肩をすくめた。

「前は持ってなかった。神様になったのなら、神様らしい力を持つべきなんじゃないの」
「なるほど……」
「君には無いの? 闇の守護聖としての能力みたいなものは」

 問われ、フランシスは口元に手を当てて考え込んだ。そういえば、自分は宇宙育成のためのサクリア所持者、すなわち守護聖になるべき者として聖地に招かれたが、果たしてサクリアを宇宙のために使う以外に何をしているのだろうか? 体内に秘められたサクリア(実際のところ、守護聖であるフランシス自身もサクリアというものが一体何なのかいまいち分かっていない)を宇宙育成のために放出する以外には、もっぱら書類作成やデータ打ち込みなどの事務、聖天使との惑星視察が仕事である。かつてサイコテラピストとして働いていた時よりは忙しくないので、それゆえに兼業として聖地でもメンタルクリニックで働いているが、その時に闇の守護聖たる力が役に立っているかというと、そういうわけでもない。せいぜい「先生と話すと妙に落ち着きます」などと来談者から言われる程度である。
 サクリアそのものが十分得体の知れない超能力だが、それ以外に何か持っているかと問われれば自分には何もないような気がして、フランシスはゆるく首を横に振った。

「……無い、と思う。考えたこともなかった……」
「そうなんだ。でも、じきに何か現れるんじゃない?」

 守護聖としての自分自身に不安になっているフランシスを余所に、セイランは、気にすることはない、というより、むしろ気にするべきものでもない、といったふうな素っ気ない口調で言い放ち、肩からバスタオルを払い取ると、再び湖の中に飛び込んだ。
 水と戯れ始める友人を眺めながら、フランシスは少し考え込んでいたが、確かに気にすることでもないなというところに気持ちを落ちつかせると、再び時間を潰すために懐から文庫本を取り出した。