彼が奏でる旋律は、どこか重苦しいとセイランは感じていた。
 休日の習慣となっているフランシスの邸への訪問の際、馬車を下りると、彼の私室がある二階の窓からピアノの旋律が聞こえてくることがあった。元貴族としての嗜みなのか、単なる趣味なのか本格的に学んでいたのかは分からないが、同じく音楽に関心のあるセイランからしても、彼の腕前は人前で弾いても恥ずかしくない、なかなかのものに思われた。
 しかし、どの楽譜をなぞっていても、彼の音は“どこか重い”という印象があった。フランシスは叙情的な音楽を好み、鍵盤の上で指を滑らせているだけの静かな曲ばかりを弾いていた。彼の音楽が重たげに聞こえるのはそれゆえかもしれないが、彼が弾くと悲観的ではない楽譜も必要以上に物悲しく感じられるのだった。
 一度、試しに、セイランが作曲したピアノソナタを彼に弾かせてみたことがある。セイランはそんなことを意図して書いたわけではないのに、フランシスが弾くと、まるで葬送曲のような暗さが鬱々と滲み出るのだ。
 今日もまた、窓からこぼれ出る沈鬱なピアノの音を聴きつつ、セイランはフランシスの邸の入り口で馬車を降りた。開かれた二階の窓を見上げ、小さな溜息をついて玄関の扉を叩くと、セイランの来る時刻を習慣で覚えた彼の召使いが、用件も聞かずに邸の中へと通してくれた。後でお茶をお持ちしますとうやうやしく頭を下げるメイドに素っ気ない挨拶を言い放ち、二階に上がってフランシスの私室のドアをノックした。
 ピアノの演奏が中断され、踵の音がコツコツと近づいてくる。やがて足音が止んでドアが開かれると、普段の執務服とは違う灰色の開襟シャツと黒いズボン姿のフランシスが、いつもの穏やかな目でセイランを見下ろした。

「やあ、セイラン」
「こんにちは」

 口早に返し、セイランはフランシスの横を通り過ぎた。真っ先に彼が弾いていたピアノに近づくと、置かれていた楽譜を手に取って、それらを眺め始める。それはセイランの知らない曲だったが、フランシスと同程度の腕前を持つ自分ならば簡単に弾けるものだった。楽譜を元の位置に戻し、椅子に腰を下ろして鍵盤の上に指を滑らせた。
 フランシスは、扉を閉めてセイランの背後に近づき、少し離れた場所に佇んでセイランの旋律を聴いているようだった。しばらくの間セイランのピアノの音だけが部屋に響き渡っていたが、五分程度経った後、セイランは演奏を中断した。そして、椅子に座ったままでフランシスに振り返った。

「嬰ハ短調。君がそう弾くのは分かる。けれど、君が思うほど、この曲は暗くない」
「……」

 フランシスは、普段よく見られる、優しげではあるがどこか陰鬱に感じられる笑みを浮かべ、セイランの座る椅子の右隣に立ち、緩慢な動作で楽譜を取り上げた。

「そうかな」
「どうして君が弾くとああなるのか、僕にはよく分からない」

 だんだんと苛立ちを覚え始め、セイランはフランシスを見上げて彼の横顔を睨んだ。フランシスは虚ろげな目で楽譜を追っていたが、じきに視線を合わすと、にこりと嘘くさく笑ってみせた。

「個性では?」
「君に弾かれる曲が可哀想だ」

 セイランは大げさに息をついて立ち上がり、ピアノの近くにあるソファに腰掛けた。のろのろと楽譜を置いてピアノの蓋を閉めるフランシスの行動を目で追いながら、セイランは、他人の前でもためらいなく見せる彼の空虚な姿が気にくわないのだと心の中で憤慨する。
 曲が可哀想などという言葉は言いがかりである。単にセイランは、フランシスが陰気な人間であるという事実を音を通して突きつけられたことに腹を立てたのだった。
 フランシスはセイランの方に近づくと、ソファの前で立ち止まり、その場にゆっくりと跪いた。

「セイラン」

 憂いを帯びた瞳で、苛立った様子のセイランの顔を親しみ深く見つめながら、彼は言った。

「個性だよ」

 フランシスの一言に、セイランは反射的に奥歯を噛み締め、悔しげな顔をした。思わず彼から視線を外し、部屋のフローリングを睨みつける。何か文句を言ってやりたかったが、妥当な言葉が見つからなかった。皮肉屋として名高い自分としたことが、なぜこういう時に言い返せないのだろうとますます悔しくなって、今度はあえてフランシスと目を合わせ、彼をきつくねめつける。
 フランシスは、夜の静けさのように、ただ小さく微笑んでいるだけだった。