僕は孤児なんだけどね。あ、でも、孤児院のような施設にいたわけではないんだ。子どもが出来ない養父母に引き取られて、ごく普通の家庭と同じ環境で、すくすくと健康に育っていたわけなんだけれど。
 本当の親には捨てられたと思うんだ。いや、あまり記憶が無くてね。なんせ、本当の親と離れたのは、ほんの二、三歳の頃だったと思うから。まだ言葉もつたないチビだよ。母親の顔もよく覚えていないんだ。
 父と母が愛し合っていたかどうかなんて知らない。けれど、実の父のことは全く分からない。母? 母のことはなんとなく、雰囲気というか、とてもぼやけた感じなんだけれど、髪型と声を覚えている。僕の髪の毛が母親譲りってことだけは分かるよ。それから、僕のことを捨てるときに言った「ごめんね」という声を覚えている。ま、それしか記憶にないんだけどね。母が僕のことをなんて呼んでいたのかも分からないし。母は、僕のことを名前で呼びたがらなかったんだ。「あなた」って、よく言っていた気がする。つまり、今の僕の名前は、養父母がつけた名前ということさ。





 僕に「ごめんね」と何度も謝ったとき、彼女は泣いてたんだと思う。本当は、僕を捨てたくなかったのかもしれない。
 恐怖は、小さい頃に味わったものなら、なおさらいつまでも残るものだ。僕の本当の母は、おそらく高貴な男の愛人だった。というのは、僕の母は、他の女の人からしょっちゅういじめられていたからね。母より少し年上の女性で、身なりが綺麗な、プライドの高そうな女の人に。その女が貴族の男の本妻で、母はその人からいじめを受けていたんだと思う。おっかない顔をした女性が、母の髪を引っぱったり、頬を叩いたりするのを覚えているんだ。その女性がいじめにやってくると、母は血相を変えて僕をロッカーや物置や床の下に隠す。その女性にとっては、夫の隠し子である僕も同じく憎しみの対象だからね。僕は、母が泣き叫ぶ声を聞きながら、暗闇の中、恐くて一人で震えていた。どちらかというと、母の声よりも、その女性の金切り声の方をよく覚えているよ。嫉妬と憎悪に支配された、とても恐ろしい声だ。憎き女への暴力が済むと、今度はその子どもを捜すんだ。どこに行った!と叫び声を上げながら。多分、母が僕を名前で呼びたがらなかったのは、その女性に僕の名がばれて、女性が呼んだときに幼い僕が返事をしないようにという配慮からだったんじゃないかな、ただの予想だけど。





 母は、僕の命が奪われることを恐れていた。毎日、本妻のいじめに怯えて、僕を守ろうと必死だったし、精神的に追いつめられていたからね。僕は、とある森の中で母と別れた。母は、泣きながら、何度も謝りながら僕を森に置き去りにした。まだ二、三歳の子どもだよ、僕はてっきり森の中で母と遊ぶのかと思って、しばらく木の葉を踏んだりして過ごしていたんだけれど、母の姿が見えないことに気付くと、わんわん泣いた。なんてったって、僕の唯一だったからね。森を彷徨って、必死に母の姿を捜し続けたけれど見つからなくて、今度は暗くなっていく森の恐怖に襲われて泣いた。少し窪みになっているところに隠れて、じっとしていた。すると、闇の中に明かりを見つけたんだ。なんだろうと思ってそちらに行くと、森の中に小屋があった。多分、狩猟小屋か何かだね。もう不安で不安でたまらなかったから、僕は精一杯の力で小屋の壁をドンドンと叩いた。ドアノブに手が届かないからさ。音に気が付いた一人の中年の男が、中からのそのそと出てきた。毛皮のベストを来ている、髭の生えた、むさくるしい男だった覚えがある。男性はびっくりしていたさ、森の奥深くに、幼子が一人でいるんだからね。色々と質問された気がするけれど、まだ僕は言葉が上手ではなかったから、説明が出来なかった。らちがあかないと思ったらしく、男は、僕をおんぶして森を歩き始めた。その辺で僕は眠ってしまったから、後のことはよく覚えていない。





 僕は、森の近くにあった村の協議によって、子どものいない夫婦の家に引き取られることになった。僕の本当の母も、その後は姿を現さなかったし、引き取りにも来なかったしね。この辺までの記憶はあるから、僕は、引取先の夫婦が本当の両親でないということを初めから知っていたんだ。だから、義理の両親を他人だと思っていた。僕を育ててくれる、親切な他人だとね。彼らは子どもを熱望していたから、とても親切だったし、僕を本当の子どものように扱ってくれた。僕のような年齢の子どもを持つには少し年老いていたけれど、優しい人たちだった。僕も、その親切に甘えていた。それでも、本当の両親だとはどうしても思えなかったから、なかなか心を開けなかったし、いつまでも遠慮していた。あまり迷惑をかけるべきではないと、子どもらしからぬ感覚で接していた気がするよ。何か欲しいものはないかと訊かれて、スケッチブックとクレヨンが欲しいと言って、しょっちゅう外に出て絵を描いていた。あまり家にいたくないというのがあったんだ。家にいても、養父母と何を話していいか分からなかったから。彼らもそれに気付いていて、ときどき悲しそうな目で僕を見ていた。とても心苦しかったけれど、僕は本当の母のことを忘れられなかった……記憶というものは残酷だよね。母のことを覚えていなければ、僕は養父母を寂しがらせずに済んだのかもしれないのに。





 簡単に話したけど、僕の子どもの頃はこんな感じ。あまり面白みが無くて申し訳ないね。でもまあ、なんだかんだ言って僕は運が良かったし、幸せだったと思うよ。母がどうして僕を捨てたのか、それはよく分からない。僕を守るためだったのか、あるいは僕が邪魔になったからなのか。でも、母に愛されていたのは確かだし、今となっては彼女の気持ちも分かる。育ててくれた養父母も、深く僕を愛してくれていたよ。僕は、この記憶だけでも、自分自身に生きる価値を見出せるんだ。