「どういう時に腕を噛んでしまうんだい?」

 フランシスが訊くと、セイランは困惑した目で相手を見上げた。それから目を伏せ、そうだな……と消え入りそうな声で呟いた。
 セイランの腕に噛み傷があると気付いたのは、出会ってから少し経った後のことだった。彼の白く細い腕に、自分でつけたらしい歯形の跡がいくつもあったのだ。もはやくすんだ色になった古傷から、最近つけたものまで、彼がほとんど無意識に行ってしまう噛み癖のようだった。

「イライラした時とか……かなり、昔からだと思う。物心ついたときには、噛んでた」

 言いながら、セイランは軽く袖をまくり上げて、歯形のたくさん残っている自分の腕を見つめた。あまり衣服には気を遣わない彼だが、長袖を着るという執着があるのは傷跡を隠すためもあるらしい。
 フランシスが守護聖になったばかりの頃、一言二言ではあったが、すれ違いざまセイランに話しかけられることがあった。後々聞くと、セイランはよっぽど関心を持った人間にしか自分からは接触を持たないらしい。どうして自分に、とフランシスは思ったが、外見だけで判断されることの多い美男子は、もしかしたら内面を診ることをもっぱらの仕事としていた元サイコテラピストという存在に興味を持ったのかもしれない。そのうち、自分の話をよく聞いてくれる闇の守護聖を気に入ったらしく、おずおずと執務室を訪ねてきては一緒にお茶でもしないかと誘いに来るようになった。じきにお互いの執務室や私室を行き来し始め、共通の趣味の話題や何気ない日常の話で盛り上がるようになった。
 就任した当時、フランシスは聖地での人間関係を把握するため、様々な人物と接触を試みては話を聞いていたが、セイランという男の評判は当所からあまり芳しくないものだった。仕事を放り出してはどこかにふらりと消えてしまって仕事が滞るだとか、皮肉屋なので言葉がきつく感じられて関わると無駄に傷つくことが多いだとか、やたら否定的な噂が大半だった。フランシスの目から見ても、セイランにそういう節があることは確かであり、彼が本格的に懐き始める前までは、機嫌を損ねてしまった記憶も無いのに上から目線で物を言われていた。フランシスとしては、今まで診てきた中にそういったタイプの人間もいたため大した驚きは無かったが、これでは周囲の守護聖や宮殿の者たちがやりづらく思うのも仕方がないという印象だった。
 外見は少女のように美しいが、中身は性悪という男の様子を伺っているうちに、フランシスには、セイランには妙に物事を達観している成熟した部分と激しい感情をもてあます未熟な部分の両極端を併せ持っている人間だということが分かってきた。時おり遠い目をして思い出話や持論を語ったり、年下の者に対して老人のように落ちついたアドバイスをしていると思いきや、何か気に障ることがあると激しい怒りや悲しみを露わにして取り乱し、人目の無いところに行って一人で殻に閉じこもっている。彼にも自身を上手くコントロール出来ないことを分かっていて、神経質そうに部屋の中をうろつく様は、端から見ていても痛ましいものだった。聖地という閉鎖的な空間の中で、彼の憎む権威を司っている立場にあるという激しいストレスは、他の守護聖の誰よりも顕著に表れているようだ。
 噛み癖は幼い頃からあるようなので、聖地に来てから始まったことではないのだと判断しつつ、フランシスは自分の執務室のソファに座って腕を眺めているセイランの隣に腰掛け、彼の華奢な肩をぽんと撫でた。

「不安なことや強い恐怖があると、もしかしたら無意識に噛んでしまうのかもね」
「うん」

 この話は終わりにしたいというように、青年は短く答えた。袖を戻し、ソファに背を預けて座ると、ふうと疲れたように溜息をつく。

「本当は僕だってこんなことしたくないんだよ。見られるたび、それ何?って訊かれる。答えるのが面倒だ」
「そう」
「誰のものでもない、僕自身の身体なんだからさ」

 どう扱ったっていいだろうと続くように、セイランはふて腐れた様子で呟く。フランシスは微笑したまま、セイランの肩をゆっくりと撫で続けた。
 長らくセイランはじっとしていたが、フランシスが自分の肩への愛撫をやめないことを煩わしく思ったのか、あるいは羞恥を覚えたのか、ソファに置いてあったクッションを両手に持ち、そこに顔を埋めて小さくなった。

「……僕自身の、身体なんだからさ……」

 消え入りそうな二回目の言葉に、フランシスは穏やかに笑んで、うん、とだけ返事をした。