セイランには、自分の身体を噛む癖があった。
 フランシスがそのことに気がついたのは、休憩時間、フランシスの執務室の奥の間で絵を描くために、セイランが長い袖をまくりあげた時だった。白く細い腕に、歯形のようなものが付いていたのだ。しかも一カ所ではなく、古傷を含めて数えると十カ所近くあった。
 もしや誰かに噛まれているのかとフランシスは疑ったが、歯形の向きが全て彼自身の方を向いていた。ということは、自分の口の前まで持ってきて、自傷行為のように腕を噛んでしまっているのだ。自分の身体を噛むというのは、何らかの激しいストレスからくる行為である。この神経質で繊細そうな青年ならば、無意識に自傷してしまうことも考えられたが、それが最近始まったことであるなら、目ぼしい原因が思い当たらなかった。常々、セイランは、聖地での暮らしにうんざりしていると漏らしていたが、牢獄にいるわけではないのだし、口に出している辛辣な言葉ほど、彼の態度はこの清浄な地を厭がっているようには見えなかった。
 絵の具で汚れないようにと袖をまくり、クリップで留めているセイランは、フランシスも同じ空間にいるということに今更ハッとしたようで、一人掛けのソファに腰掛けている精神科医の方に振り返ると、さっと顔を青くした。だが、わざわざ袖を戻して隠そうとすれば、自分が傷跡に対しコンプレックスを抱いていることを証明する羽目になってしまう。セイランは、怯えた目でフランシスを見つめていたが、じきに無言で視線をそらすと、フランシスに背を向け、持ってきた折り畳み式イーゼルを組立て始めた。しかし、その後ろ姿はかすかに震えているようだった。不意に作業を止め、イーゼルを床にのろのろと置いて、自分の腕を口元に持っていった。
 ソファから即座に立ち上がったフランシスは、さっとセイランの前に回った。案の定、彼は自分の腕に歯を当てていた。急に近づいてきたフランシスに驚いて身をすくめ、セイランは、ぎこちない動作で腕をゆっくりと下ろした。半開きになった口から見える白い歯が、恐怖を感じたように小刻みに震えていた。
 彼は、ほとんど無意識に自分の腕を噛もうとしていたのだろう。フランシスは、セイランの青く澄んだ目を見つめた。聞くところによると、彼は孤児だったという。これは憶測にすぎないが、もしかしたら、セイランは自分が捨てられたことを未だ悲観的に見ているのかもしれない。そして、捨て子だという考えが離れず、自分は要らない子だという意識で自分自身を傷つけてしまうのかもしれない。無数に散らばる傷跡を見る限り、子どもの頃から今の今まで、長い間そうしてきたのだろう。
 フランシスは、今にも泣き出しそうなセイランの前に、すっと自分の手の甲を差し出した。セイランは、びくりと身を縮め、目をしばたたかせた。

「セイラン」

 怯えている子猫を安心させるように微笑し、フランシスは、落ち着いた声で言った。

「君の腕の代わりに、私の手を噛みなさい」

 セイランは、目を見開いてフランシスを凝視した。差し出されたフランシスの手を一瞥し、すぐにまたフランシスの両目を見つめると、目元にじんわりと涙を浮かべた。
 依然微笑みながら、フランシスはセイランの口に手の甲を近づけた。すると、それを拒むように、セイランは首を横に振って数歩後ろに下がった。

「……嫌だ」
「どうして?」

 優しく問い返してやると、彼は涙を頬に滑らせながら、震える声で答えた。

「……だっ……て……
 君の手、が、傷つく……」

 セイランの握り締めた両手が震えているのに気が付き、フランシスは苦笑した。掲げて見せていた自分の手をセイランの頭に回し、よしよし、と髪を撫でつけてやる。
 セイランは驚いたらしく、身をこわばらせたが、フランシスの口から紡がれる低い声を聞くと、やがてしくしくと泣き始めた。

「なら、君も、自分のことを大切にしてあげないとね。
 同じように、君の腕も傷ついたら痛いのだから」





 セイランは、耐えきれなくなったように嗚咽を漏らしながら、フランシスの肩口に額を当てて泣きじゃくった。癇癪持ちで、もとより感情の露出は激しい男だが、このように思い切り泣くのを見るのは初めてだった。その事実に、フランシスは安心した。時おり、何かを求めてすがるように、セイランはフランシスの服をぎゅうと片手で握り締めていた。
 自分より背の低いセイランの頭を撫でながら、まるでこの子は幼子のようだと、フランシスは思った。もしかしたら、幼い時に傷ついた心を、彼は未発達のまま持ち合わせているのかもしれない。だが、彼はプライドが高く、自分の内にそういった弱さがあることを認めたくなかったのだろう。ゆえに、他人に自分の弱みをさらすのを未だ嫌っているのかもしれない。
 これから先も、しばらく自分を噛むことはやめられないだろうが、今このように激しく泣くことで痛みを放出し、これを幾度か繰り返すことが出来たのなら、いつかは彼の自傷行為が消える日が来るだろう。その手助けをするのが、自分の仕事だ。彼は自分のクライエントでは無いけれど、セイランの中には、フランシスという男に自分の精神科医であってほしいという願いがあるのかもしれない。セイランがそう望むのならば、自分は、彼にとって望みのままの姿でありたい。セイランの頭を撫でつけ、君はこの先も愛される資格があるのだからと、彼の美しい髪に小さく口づけを落とした。