守護聖たちの休憩時間というものは、特に決まっているわけではない。仕事が滞らなければ好きな時に休み時間を取り、好きな時に仕事に戻れというのが女王陛下の方針である。
 大抵、セイランとフランシスは昼食が終わった後の、陽が真上から少し傾いた時に、同時に体を休めることが多かった。フランシスがセイランの執務室に行ったり、またその逆であったり、あるいは外のテラスで茶を飲んだり、天気のよい日はカフェまで遠出をしたり、あるいは互いに全く会わない時もある。いつ会うという約束など元よりしていないため、相手が訪れてくれば嫌がることも無く仕事を再開するまで傍に置いてやるといったふうである。それに、彼らは周囲で起こりうる面倒なことを避けるために、自分と同じく面倒なことが嫌いであると分かっている相手のもとに避難しに来るのだった。
 もともと、守護聖とは、必要とされる力を持つ者たちが寄り合わさって出来ている一つのコミュニティにすぎないゆえに、反りが合わない者同士の諍いが密かに起きていることも、それほど珍しくはないことだった。守護聖たちの中で最も争いを嫌っている人物は水の守護聖リュミエールで、内部で揉め事が起きると間に入って調停者役になることが多かった。平穏と静けさを好む彼だからこそ、世界を育む仲間同士でいがみ合って欲しくないという主義主張を持つのだろうが、実際のところ争いが起きる要因は個人の主義主張のぶつかり合いなのだから、徹底した平和主義というのもまた要因のひとつになるのだろう、と、セイランはどことなく善者ぶっているリュミエールを軽蔑している節があった。そのことをフランシスに話したら、フランシスは「あの人の機嫌を損ねることが一番面倒な気がしますけどね」と、曖昧な笑みを浮かべただけだった。
 その日、セイランは溜めていた仕事を午前のうちに気合いを入れて片付けた。というのは、彼は昨晩に思いついた構図をキャンバスの上に書き殴りたくて仕方がなかったからである。フランシスが昼食を終え、その後ちょっとした仕事を片付けて、休憩がてらセイランの部屋にやって来ると、セイランは既に三割程度色を塗ったキャンバスの前で、絵の具だらけになっていた。まくり上げた袖先にも色がべたべたとくっついていて、その様々な色は、彼が絵を描く時に汚れないよう身に付けるポンチョの下のズボンにも及んでいた。洗濯係がまた泣きますね、とフランシスが苦笑しながら入り口に近い場所にあるソファに腰かけたが、セイランはキャンバスを前にしたまま振り向きもしなかった。
 およそ一時間の休憩時間を目安に、フランシスは、自室から持ってきた文庫本を開いた。大昔の哲学者が書いた精神分析論で、セイランが「確か昔、面白いことを書いた哲学者がいたっけなあ」とフランシスの医学の勉強のためを思って仄めかしたことが、読み始めたきっかけである。生物が気を狂わせるのは前世の記憶との葛藤が起きるからだ、という確かめようの無い持論を展開する昔の神秘主義的な哲学者だが、前世というものがあるかどうかも人間たちには証明出来ないのだから、ある意味、批判されることを面倒に思うことから起こった著者自身のおふざけなのかもしれない。
 この哲学者は哲学というより文学向きの人間だな――とフランシスが全ページの大体半分くらいまで読み終えた時、不意に、セイランが口を開いた。

「だめだな」

 いささか不満げであることが顕著な口調である。
 フランシスが文庫本から顔を上げてセイランを見やると、彼は口調と同じ機嫌の悪そうな面持ちをフランシスに向けていた。
 少し焦り、フランシスは尋ねた。

「あ、ごめん、邪魔だったかい?」

 すると、セイランはゆるく首を横に振り、足元に置いてあった洗浄剤入りのバケツに筆を入れながら言った。

「絵の具が足りない」
「絵の具? ……ああ、買いに行くのかな?」
「うーん……」

 十本近い筆をバケツに入れ終え、セイランは少し伸びをしてから、部屋にある水場へと手を洗いに向かった。彼は、この部屋をあてがわれた時に、宮殿の自室をいくらか改築させたらしかった。より理想のアトリエに近くなるよう、元から用意されていた余計なものは処分するか必要な者に与えるかし、自炊用に各守護聖部屋にある水道は、料理用に加え、セイランの創作用が設置された。セイランが今向かった場所は、画材を洗う目的で使うためにシンクを広げられた水場の方だった。

「休日でもいいんだけど、そうすると、塗った絵の具が乾いちゃってさ。駄目なんだよね」
「買ってきてあげようか?」

 手を洗い、キュと蛇口を閉めたセイランは、フランシスの気遣いに小さく苦笑し、首を横に降る。

「ありがたいけど、色が複雑だから」
「ああ、そうか」
「今から行ってきてもいいんだけど」

 シンク下の棚から清潔に折り畳まれたタオルを取り出し、手を拭き、

「全部の仕事を片付けてるわけじゃなくて」

 女王陛下からお咎めがあると面倒だろう、と、セイランは肩をすくめる。フランシスは、苦笑混じりに頷いた。

「うん」
「でも、まあ」

 汚したタオルを床に置いてある洗濯籠の中に放り込み、

「これもまた、芸術の一部になりうるんだ」

 そう言ったセイランに、フランシスは一瞬考え込んだ後、文庫本に栞を挟んで閉じつつ、尋ねた。

「――絵の具が足りないということも、かい?」

 絵の具が足りず、色がそこで終わるか、乾いた絵の具の上に新たな絵の具を塗りつけていくことも芸術の一部になりうるということなのか、とフランシスが問いたいことを悟り、セイランは微笑して小さく頷いた。

「うん」
「まるで運命論者みたいだね」

 君の方がこの本の著者よりもずっと面白いかもしれないな、と、フランシスは閉じた文庫本を懐に仕舞い、立ち上がった。不思議そうな面持ちを見せているセイランを一瞥して、フランシスも同じくうっすらと微笑する。

「君は流れのままに世界を捉えているんだな、と、ふと思っただけだよ」
「……分かんない。考えたことがない」

 セイランは、今度は複雑そうに眉を顰め、髪をかき上げながらタイル張りの白い床を見つめた。

「僕は、運命に逆らっているのかと思ってた。絵画というものを使って」
「君は、あるがままのの世界を写し取るか、あるいは、君の中にある果てしない空想をキャンバスの上に押しつけている」

 フランシスは、座ったために皺が出来たロングコートを手でならしつつ、

「君は、その世界に停止しているかもしれないけれど、決して運命には逆らっていないよ」
「……そうかなあ」
「けれど、私は」

 皺を取るために屈んでいた腰を元に戻し、フランシスは、笑みを浮かべたまま、じいとセイランを見据えた。

「私は、精神科医として、その人の流れを歪めているのかもしれない。
 それはおそらく良い方向へと流れさせるための歪みだが、その歪みによって得られる流れは、もはや人間に内蔵された流れと合致することはない」

 淡々と告げるフランシスの薄い水色をした瞳が、だんだんと闇を帯びているような気がして、セイランはふと、自分が彼の瞳の深淵に吸い込まれそうになっていることに気が付いた。それを意識した途端に、ぞくりとした震えが背筋に走る。

(隠している)

 刹那的に、セイランは思った。

「患者たちの、“本来ならば得られないはずの第三の介入”として、私は存在しているのかもしれない」

 フランシスは言い切り、セイランが自分を食い入るように見つめていることに気が付くと、いつも彼が他人に対して見せる無邪気な笑みをにこりと浮かべた。

「――そういうふうにも、考えられるのかもしれないね。
 さて、私はそろそろ戻るよ。また夜の会議で会いましょう」

 ひらひらと手を振りながら、フランシスは出入り口まで進むと、両扉の片側だけを開けてセイランの部屋を出て行った。
 部屋の中、シンクの前に取り残されたセイランは、フランシスの消えた扉を見つめたまま、呆然とした心地でそこに佇んでいた。