「栄光と安らぎと。
 そんな一瞬でしかないものにすがるだなんて、僕のスタンスじゃないね」

 こざっぱりとした薄い色のシャツとすっきりしたズボンの出で立ちで、セイランは、ひょろひょろと回転しながらぶら下がっている植物のツタを手に取った。それは彼の身長の三倍はある高さから降りてきたもので、散々ツタが絡まって埋め尽くされた丸天井にうんざりするように、仕方なく下に向かって伸びてきたものである。
 彼は胸元付近に降りていたそのツタを手のひらに軽く載せ、先っぽに芽吹いている小さな葉を親指で撫でた。

「自然の方がよっぽど美しいよ」

 彼の傍のソファには、暗い色をしたタートルネックのシャツと丁寧にアイロンのかけられたズボンを身に付けた、夜色の髪を持つ青年が本を片手に座っていた。休憩時間、フランシスはよくセイランの部屋に来ることが多かった。それはセイランの要請であったり、強気な彼が来て欲しいと口で言えないのを勝手に理解してフランシスからふらりと訪れたり、たまたま仕事の依頼があったりと様々な理由付けがあったが、結局の所、彼らは他の守護聖たちの中では互いと一緒にいるのが最も楽なのである。この気難しい青年のお気に入りになれたとは光栄なことですが――とフランシスは本から目を上げて、傍に佇む華奢な青年を見た。ほっそりとした横顔から窺える表情は、大した感情も宿してはいなかった。
 セイランは、表情が少ない。嫌味っぽい笑みならばたびたびよく見かけるが、心の底から感情を表すということは皆無に等しいように思われた。それが自らの性格と似ているために自分は彼の傍にいるのかもしれないとフランシスは感じていたが、表面上は、普段から荒れ狂う内面をぎゅうぎゅうと押し込めているセイランが爆発した時に、サイコセラピストという肩書きを使い、それをどうにか解決してやろうという名目で彼の前に姿を現すのだった。セイランがこの思惑をどう感じているのか、なかなか心を開かない彼から聞き出すことは出来なかったが、フランシスという存在がセイランにとって“いくらかまし”な存在であるということは、一緒に過ごしているうちにぼんやりと伝わってきていた。滅多に他人とうち解けない彼が、フランシスの前ではどことなくくつろいだ様子でいるのだ――自分の単なる思い上がりかもしれませんが、とフランシスはかすかに苦笑して、彼の言葉に応えた。

「どうして? あなたの愛する緑も、生命に過ぎないと思うのだけれど」
「“美しい”生命さ」

 セイランは無表情のままふとフランシスを一瞥し、すぐにまた手のひらの上の植物に視線を戻す。

「彼らには、栄光も安らぎも関係無いだろう。自然は限りなく自然で、ただ生きて成長して子孫を残すことだけを考えているんだから」
「つまり、それ以外を考える生物は醜いと?」
「一番醜いのは僕たちだよ」

 不意に暗い表情――彼自身は全く意識していないのだろうが――を浮かべ、セイランはやや不機嫌そうに呟いた。フランシスは持っていた本をパタンと閉じて自分の横に置くと、ソファに深くもたれて脚を組み、膝の上に組んだ両手を置いた。

「ふむ」
「不老不死なんてさ。あんたはつい最近のことだから分からないだろうけれど、僕はもう気が狂いそうなほど……」

 そこで彼は言葉を切り、目を伏せて、手のひらを力無く下に降ろした。支えを失ったツタは、バネ状になった部分のせいで何度かバウンドしてから、ゆらゆらと宙を切り始める。
 フランシスは黙り込んだセイランをじっと観察するように眺めていたが、彼がこちらを振り返ったと同時に、にこりといつもの笑みを浮かべて見せた。

「まだ、老いと限りある短い命を持つ人間の方が、ずっと美しく幸福だということかな?」

 フランシスが無邪気に尋ねると、セイランは軽蔑するような目でフランシスを睨む。

「……人間も僕らと似たようなものだけれど、僕らよりはましだよ。本来なら人間が発狂してしまうような時間を僕らは生きる」
「生命と関わるあなたなのに」
「生命と関わるから、僕は余計にそう感じるんだ」

 彼は冷たく言い放って踵を返し、ソファと離れたところにある白い丸テーブルの前の華奢な椅子に腰掛けた。この広い執務室の中では、話す相手と六、七メートル距離があるのはごくごく自然なことだった。とは言っても、セイランはほとんど人を自室には呼ばないため(彼の神聖なアトリエに入れる者はごくわずかだ)、ソファか椅子に座る人物は専らフランシスだったが。
 フランシスはソファに深く座った体勢のまま、うっすらと笑みつつ問うた。

「君はまるで生命を憎んでいるような口ぶりで言うんだね」

 フランシスの問いかけに、セイランは驚いた目を彼に向ける。しばし沈黙した後、彼は、睫毛を伏せて小さく口を開いた。

「……愛憎は表裏一体って言うだろう」
「そうか。愛しているから、憎いんだね」
「絵の中に」

 セイランは、丸テーブルと隣接している壁の窓の外を見やると、自分の絵を思い浮かべているようなおぼろげな目つきで、

「絵の中に生命を描くとき、僕は、確かにそこに生命を描いているのに、それは絵であって生命になりえないから、美しいと感じることがあるんだ。命無きものの美しさ。そこに“在る”だけの美しさ。
 自然は、多分、限りなくその“在る”に似ているんだ。ただ在る、ただ生きる。けれど彼らは新たな芽をつけて鮮やかな花を咲かせるだろう、人間の手では決して創り出せない、とんでもなく鮮やかな色で。僕はそんな彼らを見るたび肌色でしかない自分自身に強い嫌悪を感じる。彼らはこんなにも美しいのに、どうして自分は」
「醜いのかと」

 フランシスは淡々と彼の言葉を繋いで、脚を組み直した。セイランはフランシスの方を振り返り、じっと彼を見つめる。
 やはり微笑を浮かべたまま、フランシスは言った。

「君の気持ちはよく分かるよ。私の元に来た患者たちにも、似たようなことを言う人々がいた。汚らわしい自分は存在してはいけないのだろうか、と」
「僕は」

 自分の存在を否定しているわけではない、とセイランがとっさに口を挟む。フランシスは、そんなことは分かっているというふうに、深く頷いた。

「自己否定は、生命であるものにとって最も悲しいことだ。けれど、それこそが本質であり、重要なことであると私は思う。
 患者たちは、気付いてしまうんだよ。人間がとても醜い存在であるということを。やはり、それは真実なんだ。君の言うとおり、人間は自然よりもすっと醜いだろう。自然が浄化したものを人間は無慈悲に汚してしまう。自然は、自分の責任ではないのにその汚されたものを再び浄化する。その繰り返し繰り返し。患者たちは言うよ、自分は愚かだと。死んでしまった方が世界のためになるのではないのかと」
「……」

 セイランの顔が、ふと憂いを帯びる。彼の気持ちをくみ取り、フランシスは優しく続けた。

「では、そうやって自分のことを否定し、自然を哀れみ、自分が消えることで世界を美しくしようとする、その人間の心とは、果たして醜いものなのか?
 私は否と言いたい。そう言う彼らは、やはり優しく慈悲深い心を持っているのだよ。自分自身が醜い存在であると気付かない人間よりも、ずっと。だから、私には、君はとても美しく見えるのだけれど」

 フランシスの言葉に、セイランは一瞬驚いて彼を凝視した後、奥歯を噛み締めるような苦々しい面持ちになって呟く。

「……それでも、僕は」
「憎むのだろう」

 フランシスは目を伏せ、穏やかに言った。ひどく心地の良い彼の声の出し方に、セイランはどうしようもなくつらくなって、目を閉じた。暗闇に覆われたその空間の中で、フランシスの優しい静かな声音だけが響いてくる。

「君は、冷たく蠢く生命の光を憎みながら、この先も生きるのだろう。
 けれど、安心なさい。
 その先にあるものは、愛も憎しみも存在しない、永久なる深き眠りなのだから」