「おや……」

 不意に声が聞こえ、青年は伏せていた顔を上げた。
 目の前に、短い草が茂っている地面と何者かの足がある。飾り気のない、丁寧に磨かれた白い靴だった。靴だけでは誰と分からず、少し目線を上げてみると、その者が身に纏っているらしい黒い服の裾が見えた。真ん中にルビーがはまっている羽のような形をした金色の装飾が上に施されている。広がった形はスカートに似ており、一瞬女性が佇んでいるのかと思ったが、靴の大きさから考えると男性だった。
 一体誰だろうと、青年はようやく顔を上げきって近くに来た人間を見上げた。逆光になってしまい顔はよく分からなかったが、背の高い男だった。肩幅が大きいが太っているわけではなく、肩から繋がっている黒い服の腰の部分が金の帯できつく締められているため姿勢がしゃんとして見える。
 その人物は、こちらを見下ろしているようだった。男がしゃがみ込んでくると、男の後頭部を照らしていた陽光が障壁を失い、青年に燦々と光が降り注いだ。思わず眩しさに顔をしかめ、何度か目をしばたたかせる。
 目のくらみが無くなったあと、青年は、自分の前に座り込んだ男の顔を見た。青年の知らない、おそらく同世代と思われる若い男だった。暗い青色の髪は癖毛なのか、やや波打ちながら額にかかっていて、それと同じ色をした眉毛は男性らしくきりりとしていた。長い睫毛の中にある瞳は青灰色で澄みきっているが、少し寂しげな、虚ろげな感じがする。鼻が高く、口元は薄く微笑しており、顔色が青白いため、やや病的な印象を受けた。それでもかなりの美青年である。まじまじと観察している青年自身も周囲から美丈夫と賞されている人間だが、目の前の男は、また違った部類に入る美しさを持っていて、どちらかというと男性らしい紳士的な美に思われた。
 男は穏やかに笑みながら、青年と同じく相手のことを観察しているようだった。色あせた青の視線のせいで居心地が悪く、青年が思わず目をそらすと、男は心配そうに口を開いた。

「どうしました?」

 男の喉から出た声は、低いが優しげだった。穏和な顔立ちと声音がぴったり一致している。
 青年が答えないままでいると、男は少し身じろぎをし、なぜか青年の頬に片手を添えてから言った。

「レディ?」

 その単語を聞いた瞬間、血液が逆流するような怒りが青年の全身を襲った。瞬間的に男の顔を睨むと、頬に当てられた手を勢いよく振り払い、相手の頬に思い切り平手打ちを食らわせた。男が目を丸くして後方に吹っ飛ばされる様子が視界の端で見えたが、その時には青年は立ち上がって歩き始めていたため、引っぱたかれた男がどうなったのかはよく分からなかった――いや、どうなったかになど、関心がなかった。
 草むらを踏み、宮殿のある方へと大股に歩いていると、背後に気配がする。もしやと思い青年は振り返った。案の定、相手を女だと勘違いした情けない男が、頬を抑えて少しふらつきながら追いかけてきている。
 青年は溜息をついて男に向き直った。すると、男も立ち止まった。青年と男の間には数メートルの不自然な空間があったが、距離を詰める気など青年には毛頭なかった。一方の男は頬に当てていた手を下ろすと、その場で青年に深く頭を下げてきた。
 残念だったね、僕は男だよと言わんとしていた青年は、口から出すはずだった言葉を呑み込んだ。拍子抜けしているうちに、男はゆっくりと上半身を起こし、悲しげな顔をして「大変失礼なことをいたしました」と謝ってくる。

「男性の方、だったのですね……申し訳ありません」

 頬を叩いたのはこちらなのに素直に謝られ、青年は戸惑う。だが、ここで男を許すのも気にくわないので、腕を組んで、そっぽを向いてみせた。

「慣れてるから、いいけどね」

 適当な文句が見つからなかったのでそう言ってみたが、自分が本来言いたかった言葉ではない。

「それは……とてもおつらいことですね」

 男から同情の含まれた声で返され、てっきり平手打ちへの不満を言われると思っていた青年は驚いて、男を見る。左頬に真っ赤な手形のある男は、依然悲しげな目をして青年を見つめていた。
 このやたら憂える表情はなんなんだという疑り深い気持ちで、青年は、他の言葉に対してはどういう反応をするのだろうと興味を持ち、試しに男に返してみた。

「別に。誰かが僕を女なんじゃないかと疑ったところで、僕は女になれないから。そうやって妙に同情した様子で返してくるのは、君も同じ経験をしたことがあるからかい」

 その図体で?と喉まで出かかったが、どうにか押しとどめる。突き放すように言われた男は、じいと青年を眺めていたが、じきに左手を上げて叩かれた頬を軽く撫でた。

「これだけの怒りを向けるということは、あなたが傷ついていらっしゃる証拠ですから……」

 憂愁漂う様子で放たれた台詞を聞き、青年の頭に再び血が上った。何を偽善的なことを、今まで顔も見たことすらないお前に心配される覚えなどないと逆上したと同時に、男に自分の心の奥底が見抜かれたような気がして腹が立った。
 このまま何も言わずに立ち去るという選択肢もあったが、それ以上にこの怒りをぶつけなければ気が済まない。青年は男に向かって吐き捨てた。

「ご心配どうも。僕が哀れにも傷つけられたのは、あなたのせいですけどね」 
「申し訳ありません。どなたかが私の館の敷地内に侵入しているようなので、不審に思い、声をかけたまでなのですが……」

 その言い草は明らかに青年に対する挑発だったが、それ以上に言葉の内容に驚き、青年は目をまん丸くした。この辺りはあまり人がうろつかず、誰かの占領地でも無いため、頻繁に散歩や昼寝に利用していたのである。

「敷地内だって?」
「ああ、申し遅れました。私は昨晩、聖獣の聖地の闇の守護聖として遣わされた、フランシスと申します。宮殿の東の館をあてがわれたのですが……」

 あれです、と後方に振り返り、広葉樹の森に囲まれた館を指差す。フランシスとやらの男の指の先を追いつつ、あそこは誰もいない空き家だったのにと青年は唖然とした。まさかこの変な優男が自分と同じ立場の人間だとは予測もつかなかった。
 フランシスという男は再び青年に向き直ると、あなたは?という穏やかな目を青年に向けた。驚愕によって怒りを一瞬でも忘れた自分に苛つきつつも、同じ任務を負う人間ならば後々嫌なほど顔を合わせることになる、下手に関係を壊すべきではないのではないか――そう考えて、溜息混じりに低い声で答える。

「セイラン。君と立場と同じくする者で、緑の守護聖さ」
「おや……」

 驚いたような声を出して、フランシスはゆっくりと歩みを進めてきた。近づくなよと言ってやりたかったが、あまりつんけんしても仕事の面でやりづらくなる。悪態をつく代わりに、自分の前まで来て止まった男を邪険な目で見やる。
 フランシスは未だ叩かれた頬を赤くさせたまま、優しげに笑み、セイランに向けて片手を差しのべた。

「同じ守護聖として、よろしくお願いします、セイランさん」

 この男、自分に力の限り平手打ちされたのに本気なのかとぎょっとしたが、ここで無意味に突っぱねても面倒が増えるだけだ。一応嫌悪を示すために大げさに息をついてから、セイランはしぶしぶフランシスの手を取った。
 手を握られて、ふふ、と目の前の男が笑む。その微笑が悲しげに見えて、セイランは、なぜこの男はこんな寂しい目で笑うのだろうと疑問に思った。