マーガレット   花言葉は「恋の占い、心に秘めた愛」





「ロラン、ここではだめだよ」

 まさかこの弓使いに限ってこんなこと――
 クリスの頭は混乱していた。自分を見下ろしている二つの黄金色の瞳は、獲物を狙う獣のように妖しい光を宿している。この男の、こんな態度を目前にしたときには逃げるが先決なのだが、視線の呪縛にかかってしまい、クリスはロランを見上げたまま身動きすることができなかった。
 背中は、扉に押しつけられている。これが単なる壁ならまだましだった。今クリスがいる場所は、城の廊下へと続く扉の前なのだ。どうしてこんなことに? クリスは相変わらずの無表情でいる弓使いの顔から必死に真意を探っていた。もしこんなところで事に及んでしまえば、業務後とはいえ人が通る可能性は大いにあるのだ、仮にも執務室である騎士団長の自室でなんと破廉恥なと訴えられてしまう。
 呆れるほど真面目で規律正しい男が、なぜ自分をこんなところに追いやったのか。問いかけようとした瞬間、まるで手品のように素早くタイを外され、ブラウスのボタンに次々と指をかけられた。瞬く間に上半身を下着姿にされてしまう。
 艶めかしい谷間が露わになり、堪能するようにロランは胸元をまじまじ眺めた後、腰をかがめてクリスの首や肩に幾度も舌を這わせた。敏感なところを幾度も撫でられ、声が出そうになるのを必死にこらえる。

「ん、ロラン……あ、こ、声が」
「声は出さないでください」

 あんまりだ。
 淡々と言いつつ肌を愛撫することをロランはやめない。仕舞いにはズボンまで脱がされ、上下の肌着もずり下ろされてしまった。頼りない布一枚を纏っているだけのみっともない格好を見られるのが嫌で身をくねらせるが、ロランは脚や腕を巧みに使ってクリスが這い出るのを拒んだ。
 大きな手で素肌を撫で上げられる快感に、クリスの全身は桃色に色づき、口からは熱い吐息が漏れる。外で誰かが聞いてしまうかもしれないという羞恥心が逆に火種となっているらしく、普段ベッドの上で抱くよりもずっと強い興奮に襲われていた。自分がこんなことで喜ぶだなんて信じられない、心の中をのぞかれたとしたらきっとロランに軽蔑されてしまう。
 両手で男を押し、抵抗を試みるが、それも些細なものにしかならなかった。それを良いことに、ロランはますます乳房を吸い上げたり下腹部に手を這わせたりと容赦がなくなっている。そのたびにクリスの口から小声が漏れてしまうのを楽しんでいるかのようだ。

「ん……だ、だめ。ねえ、ロラン」
「はい」
「人に聞かれてしまう」

 その言葉に、一瞬だけロランはクリスに鋭い視線を向けた。だがすぐにそらして、潤っていることを確かめるために太ももの内側を片手で撫でつけてきた。

「あう……」
「クリス様、かわいらしいですよ」
「ロラン……もうやめて、こんなこと」
「今更です」

 今度はクリスに背中を向けさせ、背筋を舌で舐めたり尻を手で触ったりしてくる。クリスは両手を扉に着き、崩れ落ちそうな身体を必死に支えた。口元が先ほどよりも扉に近づいてしまい、かろうじて鍵はかけているため外から入ってくる者はいないだろうが、こんなところであえぎ声など漏らしたら廊下を歩いている者に聞かれてしまう。
 もしばれたらどうするのだ。ロランの口から実のところを問いただしたいが、それもままならず。

「いいですか」

 耳元で囁かれる。いつの間に男の熱い先端を尻に押しつけられ、今まで感じたことのない羞恥にクリスはふるふる首を横に振った。

「いやだ」
「却下します」
「ばか! 何を考えているんだ、こんなところで。お前らしくないぞ」

 男はクリスの言い分を聞かなかった。もう我慢するのは無理であると性急に呟き、クリスの下半身を突き出させて、後ろからぐいと挿入した。衝撃に思わず声が漏れてしまい、慌てて片手で口をふさぐ。ロランは一応クリスの様子をうかがっていたようだが、すぐにゆるゆると動きを開始し、律動し始めた。
 声をかき消すために必死に息を詰まらせるものの、男の動きに応じて呻きは漏れ出てしまう。うまく呼吸できないため苦しい。本当は外のことなどかまわず嬌声を上げ、この動きに本能のまま従った方がずっと楽なはずだ。彼が出し入れするたびに繋がっている部分から妖しい音が鳴り、それがよけいにクリスの欲情をあおり立て、うっかりすると今の状況などかまわずいやらしい声を出してしまいそうになる。
 いつもは物静かな男の荒い息が聞こえる。彼も相当興奮しているらしい。

「あ、あっ……ロランっ、やめてえ……」

 何度訴えても男は沈黙を守り、その動きを早めたり入れ具合を深くしたりすることで答えを言っている。引き抜いてくれそうな気配は全くない。むしろ動きを早めて達しようとしているらしい。
 どうして……。問いかけはもはやクリスの口から出てくれることはなかった。するのが嫌だというわけではない、そんなことを言えるはずがないが、せめてこの扉の前から離れたいのだ。もし誰かがすぐ近くにいて聞いていたら、万が一扉が開いてしまうようなことがあったら……
 そのとき。
 自分の身体が前のめりになる感覚を覚え、クリスの頭は真っ白になった。
 ドアが開いた!
 うそだろう、だって鍵をかけていたのに――
 向かいにある大きなガラス窓から夕暮れの色が飛び込み、クリスの視界はまばゆい光に覆われた。同時に、ロランに押しつけられてた身体がふわりと前へと倒れ、廊下側に出ようとする。乳房は下着から飛び出し、下半身は男と結合している、こんなあられもない姿で。
 ああ――私の人生は終わった。
 絶望感ですさまじい目眩に襲われたとき、クリスは、後ろにいたはずの弓使いをなぜか目の前に見た。

「クリス様?」

 疑問そうな呼びかけが聞こえ、ハッと身体を震わせる。まぶしさに目がくらんでいた視界は、いつの間に暗闇だった。すぐそばに、心配そうにのぞき込んでくる弓使いの顔があり、クリスは今の状況が分からず、しばらく唖然としていた。
 先ほどまで自分を背後から激しく犯していたはずの男が、優しい手つきでするりと頬を撫でてくる。

「大丈夫ですか? なんだか急にうなされたようですから……」

 その言葉で気がついた。
 夢だ。
 自覚が芽生えると状況判断は素早かった。今、自分とロランは自室のベッドの上にいて、営んだ後のまどろみで自分だけ眠ってしまっていたのだ。そして夢の中でロランとあんなことをして、思わず寝言(嬌声ではなかろうな?)が出てしまっていたらしい。
 瞬く間に全身が熱を帯びた。

「……クリス様? 頬が熱い。熱があるのでしょうか」

 一方のロランは、クリスの夢の中で、とんでもないシチュエーションで事に及んでいたことなどつゆ知らず、頭から蒸気を噴き出し始めた恋人の身を真剣に案じている。
 とてもではないが夢の内容など伝えられない。男の顔をまともに見ていることができず、クリスはゆっくりと毛布の中に潜ると、眉をハの字して目だけをのぞかせるようにしてみせた。視線の先には弓使いの困惑した表情がある。

「ど、どうなさいました?」
「……」
「クリス様?」

 ロランはクリスの具合が悪くなったのかもしれないと心配しているだけだ。それは分かっているのだが、それよりも先ほどの夢の衝撃がひどすぎて、平気だと返そうにも言葉を発することができない。
 ああ、もし夢が記憶の整理だとしたら、彼とあんなことはしたことがないし、ああなるように記憶の断片の組み合わせたのは、紛れもない自分自身である。もしや、あれは願望なのだろうか? 弓使いにあのようないやらしいことをされたいという――

「あああっ!」
「ク、クリス様?」
「いやっ!!」

 耐えきれず、シーツに顔を押しつける。夜中のため辺りが暗いからまだいい、もし日の光のもとにいたら、尋常でない顔の赤さが伝わっていただろう。
 クリスは脚をばたばたさせながら、拳で何度もベッドを殴った。

「ばかっ! もういや!!」
「い、いやとは何がですか? 何かお気に障ることを」
「違う! 違うけど、でも、でも、あ、ああいうのは、お前の責任もあるんだからな! 実際にお前とこうなったことで、ああいうことが……」

 こそあどだけで喋って伝わるはずもない。隣でうろたえているロランには気の毒だが、この夢の内容だけは絶対に話せない。
 しばらく一人でキャーキャー喚いていたのだが、弓使いが急に黙り込んだため、もしかして怒らせたかもしれないと慌てて振り返ると、そこにはクリスをじっと見つめて考え込んでいる男の姿があった。

「……クリス様。
 もしかして、夢を見たのですか?」

 天然のくせに、こういう変なところで頭が回るのだ、この男は。
 クリスは嘘をつけない。どう言い訳すべきかとあれこれ悩んでいる間に、ロランはクリスの頭に顔を寄せ、少し嬉しそうな声を出した。

「夢を見たのですね。私とあなたの夢を」

 声色からして、もはや真実を分かっている調子だった。きっとにやにやしているに違いない。
 男はクリスの身体に手のひらを這わせ初め、上から覆い被さると、耳元に口を近づけ妖しい声で囁いた。

「夢の中の私たちは、どんなでしたか?」