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 しかしここまでいくといっそ好感を抱けるほどだと、ロランはそれを見下ろしながら胸中で断言した。視線の先には、一見しただけで分かる者には分かる、しかし分かったとしても少し心が切なくなる物体があった。それは騎士団長の仕事机の上に無造作に置かれており、近くにはおまけのような風体で編み棒と絡まり合った毛糸(もとは美しい球体になっていたはずだ)が転がっている。
 また新たな犠牲者が……と溜息をついて、ロランは、床にじかに座りソファに頭を突っ伏しているクリスを見た。

「クリス様、不向きなことは無理になさらぬよう」

 わりとはっきり言ってしまうと、顔をうずめてしくしくと泣いていた乙女は肩を震わせ、言葉を放った恋人に真っ赤な目をして振り返った。

「だって、赤ちゃんの靴下を作りたかったんだもの!」

 ああ、これは靴下なのか……。机の上にある、様々な編み目がこんがらがっている毛糸の塊を再び遠い目で見つめる。靴下のつもりだったものは海藻のようにうねっていて、どことなく恐怖を覚える形状を取っており、できる限り早めに糸をほどくべきだとロランは思う。

「今から練習すれば、出産までに間に合うと思った。昼間、侍女に編み方を教わって、自力でやろうとしたらこのざまだ。どうして私はこんなにもだめなんだ!」

 わっと声を上げてソファに顔を突っ込み、おいおいとこの世の終わりのように泣いている。ロランは無言でクリスの方に近づいて、しゃがみ込むとその哀れな背中を撫でてやった。

「たとえうまく作れなくとも、おなかの子どもは優しい母の愛を感じていることでしょう。作らずとも、それほど高くはない毛糸の靴下です、店で買えばよい」
「今回はばっさり切り捨てるな」

 やや恨みのこもった声で言われたが、ロランは淡々と無視し、機嫌を直すまじないを施すために、頭を起こしたクリスのこめかみに軽く口づけた。

「人には向き不向きがあります。クリス様はクリス様の得意なことをなさればよいのです」
「私の得意なことってなんだ。武芸か? それ以外なんの取り柄もない女だぞ」

 何か取り柄らしいことを一つ上げようと思ったのだが、残念なことにロランもすぐには思いつかず、ごまかしも含めてクリスの顎を上げさせると、彼女の唇にそっと口づけた。あまり自分からこういったことをしない男の行動に驚いたのか、美しい紫の目が見開かれる。

「ん……ロラン?」
「可愛らしいクリス様。今だけは何も考えずに、どうか私の懐に抱かれてはくれませんか」

 返事を待たず、軽い力でクリスを引き寄せ、華奢な体に腕を回す。クリスは始め戸惑っていたものの、すぐにうっとりとした顔つきになって、嬉しそうに恋人の胸元に身体を寄せた。

 その数日後、クリスが橙色の毛糸で作られた小さな靴下一足をロランに見せに来た。店で買ったのですかと尋ねたところ、「いろいろ話したらサロメが作ってくれた。彼はものすごく器用だった」とふくれっ面で説明された。
 それはそれで複雑なのだが、あの訳の分からない靴下のつもりのものをいずれ生まれくる赤子に履かされるよりはましなのかもしれない、しかしこれは死んでも口に出せないなと、ロランは心の中でひっそり呟いた。



39


 珍しい、と思った。滅多に感情のぶれることのない男が、今日は見て分かるほどに苛立っている。いや、周囲の者には変わりなく見えるのかもしれないが、クリスには朝挨拶を交わした瞬間すぐに分かった。
 心配性のクリスは昨日の自分の行動を振り返ったが、彼の怒りを招くようなことは特になかったはずだった。ならば別の人間が原因だろうか? たとえば部下が失敗をしたとか――いや、ロランはそんなことで激怒するようなエルフではない。彼の逆鱗に触れるような事態――たとえば人間にエルフ差別をされたとか?
 色々と考えを巡らせ不安で仕方なくなったクリスは、昼休み前に騎士団長の部屋を訪れた弓使いに訊いてみることにした。

「ロラン、何かあったのか」

 するとロランは問われたことに驚きもせず、むしろいずれクリスに訊かれることは分かっていたような口調で、むすっとしながら答えた。

「耳が……」
「耳?」

 やはり民族差別を受けたのではないか――ロランの気持ちに同調してしまい、クリスが怒りと悲しみで震えながら泣きそうになっていると、ロランは右耳を右手で触りつつ続けた。

「耳の先が、かゆいのです」

 どうやら寝ている間に耳の先を蚊に食われたらしい。
 散々笑い転げてロランの機嫌がさらに悪くなりかけた頃、クリスは慌てて自分の持っているかゆみ止めの薬を貸してやった。エルフの体質に合うか分からんが……と念のため付け足しておいたが、エルフは素直にありがたいと受け取って部屋を去って行った。
 そのまま午後は会う機会がなく、夜、寝酒に訪れたロランはすっかり晴れ晴れとしていて、「人間の作る薬も素晴らしいですね」とかゆみ止めの効力にひどくご満悦の様子だった。



40


 ロランは顔を上げた。それまでどうしていたのか分からないが、どうやら自分は屋外にいて、空からはしとしとと静かな雨が降り注いでいた。空は青みがかった灰色で、城下町と思われる――と曖昧なのは、自分が佇んでいる場所が見覚えのない街路だったためだ――その場所には、ほとんど人の気配がないようだった。近くには花や小物を打っている露店があったが、店主らしき人影はなく、むしろ雨が降っているのに商品を陳列しっぱなしにしていてよいのだろうかと心配になる。
 ここはどこだろうと周囲を見回したとき、ふと、漂う白い霧の中に人の姿を見つけた。始めはよく見えなかったが、注意深く見ているうちに、その人物が若い男性であり、自分と同じ形の耳をしているエルフだということに気が付いた。顔は、霞みがかってよく見えない。
 道を尋ねようと口を開きかけたとき、男性も同時に言葉を発した。

「母が、泣いています」

 それは聞き覚えのない青年の声だった。自分に対して喋っているのだろうかとロランは首をかしげ、何のことだと問い返そうとした瞬間、またしても先に青年が口を開いた。

「でも大丈夫。僕が守ります」

 青年が踵を返して背中を向けたのが分かったため、ロランは腕を伸ばして彼を呼び止めようとした。だがそのとき、とても濃い霧が周囲を覆い、目の前が真っ白になって何も見えなくなってしまった。

 次に視界に入ったのは、見慣れた自室の天井だった。周囲はまだ静かで暗く、陽が出るまでもうしばらくかかりそうだった。
 ロランは仰向けに寝たまま、長く細い息をついた。

「そうか。
 そうなんだな……」



41


「本日、ロラン殿が病気休暇を取るそうです」

 そう告げた軍師にクリスは勢いよく振り返った。サロメはクリスの反応を予測していたらしく、手元にある書類を目を伏せて確認しつつ、次は……と別のことを話そうとする素振りだったので、ちょっと待てというつもりでサロメの胸元に掴みかかった。

「ロランが病気だと!? なぜ!」
「熱が出たらしいですよ。風邪でも引いたのでしょう」
「熱! 医者は! 医者には診てもらったのか!?」
「訊いてみましたが要求しなかったので。一日部屋でお休みに」

 なるということです、と軍師が言い切る前に、クリスは悲鳴を上げて自室をうろうろし始めた。

「大変だ! もし重病だったらどうするんだ……本人が厭がっても医者に診せるべきだ。いや、待てよ、ロランは人間界にいるエルフだし……エルフの診療をしたことがある医師に頼まねばならん。サロメ、いい医者を知っているか?」
「あとで探しておきますから、クリス様はクリス様の仕事をなさってください。書類が相当数残っていますので」

 騎士団長の机の上に山積みになっている書類を指差して言うのを無視しながら、クリスはソファにどさりと腰かけた。膝に頬杖をつき、ふんと鼻息をついて、今ベッドの上で苦しそうな呼吸をしている弓使いの姿を思い浮かべると、途端に可哀想になってきて涙があふれた。
 見舞いが必要だ……と深刻な呟きに軍師の溜息が聞こえてきたが、それも無視し、クリスは腰を上げて、ロランに届けるための見舞いの品をかき集め始めた。





「クリス様から預かった見舞いの品を持ってきました」

 どさささ、という音が近くから聞こえてきて、ロランは肩を震わせて瞼を開けた。熱で朦朧とする視界の中、鎧と赤いストールが見えて、サロメが部屋に来たということが分かったが、声がいささか機嫌悪そうだったので、また嫌味でも言われるのではないかと熱の混じった溜息をつく。
 音がしたのは机のあたりだ。何かが山積みになっている。

「動けるようになったら確認してください。水差しとコップは私からです、喉が渇いているでしょう。それから午後に医師に診察に来るように頼みましたので、そこで大人しくしててくださいね」

 気を遣ってくれているのは確かなのだが、口調が淡々として冷たいのでロランは何も言わずにいた。持ってきたものを適当に整えた軍師が去ろうとする直前、ふと立ち止まって、机に並べられた見舞いの品のうち一つを手に取ってロランの顔に押し付けた。
 なんだ……と怪訝な顔をしてそれを受け取ると、ひどい裁縫のされ方をしている兎らしき生き物のぬいぐるみで、あまりに顔が不細工だったので恐怖に再び身体が震えてしまった。

「クリス様が、お腹の子どものためにご自身で作ったものです。あなたには秘密にしていたらしいのですが、この際だからと渡されました。しかし、それでは御子が泣きますね」

 では、と、やはりサバサバした様子で軍師は部屋を出ていった。
 ロランは熱でぼんやりとした身体を奮い立たせつつ、仰向けになって、ぬいぐるみをそっとかざして見つめてみた。木のボタンで目と鼻が縫い付けられているが、かなり位置がおかしい。彼女の目には、兎はこのように映っているのだろうか?

「……ふっ。きっと、泣くだろうな……」

 子どもを想う女性の優しさに、ロランは笑みを浮かべた。



42


 今日はなかなか冷えた一日だった。クリスも寒さが堪えたらしく、腹を冷やさないために、会議室にある大きな暖炉の前で身体を温めていた。彼女の城の自室には、残念ながら暖炉がないのである。
 食堂で夕食を取ったあと、クリスの様子を見に行くのが日課になっていて、いつものようにロランが部屋を訪れたら姿が見えなかったため、きっと会議室だろうと思って訪れたところ、案の定、火を求めて彼女は暖炉の前で丸くなっていた。
 ロランが部屋に入るとクリスはふっと安心したように笑ったが、寒さのせいでどこか無理をしているようにも見え、ロランは彼女の横に静かにしゃがんだ。

「大丈夫ですか」
「ああ……しかし、今日はかなり冷えるな」

 赤ん坊にも堪えそうだと、かじかんだ両手を合わせながら言う。ロランは一度立ち上がり、ソファにあった――おそらくサロメが用意したのだろう――毛布を取り、クリスのもとに戻ると、それを肩にかけてやった。

「あ、ありがとう……」
「早目に就寝されるのがよいでしょう」
「うん。
 あ、なあ、ロラン。お前の故郷は、こんな気温になることはなかったのか」

 問われ、ロランは立って彼女を見下ろしたまま首を傾けた。

「エルフの集落で……ですか? 考えてみれば、あまりなかったような。エルフは自分たちに過ごしやすい場所を探し求めるので」

 猫のようなものですね。
 淡々と告げると、こちらを見上げているクリスは一瞬目を丸くし、可笑しそうに笑った。

「猫。なるほど、木の上を好む」
「ええ。ゼクセンは温暖ですが、年によっては異常気象が起きますね」

 考えてみれば、月数からすると子どもが生まれるのは春頃だ。一年の中で一番温かくなる季節だろう。

「私たちの子どもが生まれる日は、どんな天気だろうか」

 再び暖炉を見やり、クリスはそんなことを呟いた。

「穏やかでよい天気の日がいいな……まあ実際、どちらでもよいのだが」
「きっと子どもが選ぶのでしょう」

 ロランの言葉に、それもそうだと彼女は笑った。
 胎児に聞こえるはずはないだろうに、今の母の願いを腹のゆりかごの中で聞いていて欲しいと、ロランは密かに願った。



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 以前からロランにはやや疑問なことがあった。
 クリスはロランとプライベートで逢う際、相手の服装をよく観察しているらしく、まじまじと見つめては「ロランはなんでも似合うなあ」と目をきらきらさせながら告げてくる。なんでも似合う根拠は「単純にスタイルがいいから」ということらしいが、実際ロランはファッションにこだわりがある方ではない。市販のものでは自分に合うサイズがなく、しぶしぶ仕立て屋に頼むことになるうえ、体格が大きいので値段も張ることになり、少ない枚数を着まわしているのが現状だ。ただ、そこそこセンスはあるようで(あくまでエルフ的な感覚だが、エルフは美的感覚が優れている者が多い)、組み合わせを考えることは苦ではない。派手な色の服は好まないし、そもそもゼクセンは落ち着いた色味のものを身に着ける傾向にあるので、紺や茶、群青、黒などのシャツとズボン、場合によってはベストやマフラー、コートを着てクリスとの逢瀬に備えるのだが、その男エルフのセンスがどうやらクリスのツボらしいのだ。なんとなく気になって軍師にその旨を問い合わせてみたところ、「あの方は基本的にセンスがない。だからセンスがある人間を羨ましく思っているのだ」と、彼女の味方なのだか敵なのだかよく分からない見解を示していた。
「ロランは素敵だなあ」と、うきうきした様子で見上げてくるクリスを眺め、絶対数が少ないゆえに着まわしているだけだし、あまり買いかぶらないで欲しいと思いつつ、試しにロランは訊いてみた。

「クリス様は、私のどのような服装がお好きですか?」

 するとクリスはきょとんとして(弓使いからそういった問いかけをするとは思っていなかったのだろう)、ふと視線を下に向けて何やら深刻そうに考え込み、小さく唸った。

「どんな……そういえば、考えたことがなかったな」

 毎回褒めているというのに、この言い草である。
 次に真剣なまなざしでロランを見上げ、

「似合うからなんでもいいんじゃないか?」

 などと言う。
 ロランは密かに落胆し、淡々と「そうですか」と答えた。答えながら、心の中でやれやれと思う。もし、今とは逆で、女性側が男性に対して同じ問いかけをし、男性が「なんでもいい」という回答を口にすれば、途端に女性は「ちゃんと私のことを見ていない」とか「適当に答えないで」などと言い始めるのだ。性差は、時に理不尽でもある。
 とりわけクリスは自分に自信がない人間なので――誰もが羨む素晴らしい肉体美を持っているくせに、不思議なほどその自覚がないのだ――彼女がもし同じ問いかけをしてきたら、不条理だと思いつつ、具体的に答えてやらねば……とロランは真面目に決心した。



44


 この体勢は何だ?
 一瞬世界が暗転し、気がついたときには部屋の壁際にいた。片方の手首を捕まれ、壁に押しつけられている。自分の前にある人影を上へ上へとたどっていくと、背の高いエルフが無表情でクリスを見下ろしていた。怒ってはいないが何らかの期待が混じっている妖しげな瞳にクリスは戸惑い、言葉を失う。逃げようにも、二メートルを超える男の図体をどけるのは不可能だ。
 一体どうしたのだろう。クリスは弓使いを見つめながら、おそるおそる口を開いた。

「あの、ロラン。これはどういうことなんだ?」

 するとロランは口元に薄く笑みを浮かべ、いえ、と囁くような声で答えた。

「意味はありません」

 淡々とした返答に、クリスは驚く。何事も効率化を図るこの男が、無意味な行動をすることなどこれまで無かったからだ。
 意味がない?と困惑気味に聞き返すと、ロランは素直に頷いた。

「クリス様を見ていたくて」

 ストレートすぎる返事に、今度こそ度肝を抜かれた。顔が瞬く間に熱くなり、自分の姿を見られたくなくて逃げだそうと掴まれた手に力を込めるが、すぐに抑えつけられてしまう。しかも男は何気なく体術を使い、下手に動くとクリスが関節を痛める掴み方をしている。
 弓使いであるこの男の腕力になど勝てっこないのだ。抵抗を諦め、しかし真っ赤になっているであろう顔を隠すためにうつむき、そのうちしびれを切らして自分を解放してくれるのを待とうと考えたのもつかの間、両脚の間に膝を入れられ、手を掴むのと逆の手で肩や胸元を撫でつけられた。いきなり始まった男のいやらしい動きにたまらず声を上げる。

「んっ……ロ、ロラン」
「――こうやって追いつめて」

 耳元で呟かれる。

「恥ずかしがるあなたを見たかった」

 ああ、この男は本気だ。
 クリスは確信した。この行動は確かに無意味なのかもしれないが、冗談などではないのだ。
 激しい羞恥に悲鳴を上げたが、抵抗むなしくクリスは壁際に追いやられたまま、撫で回され、舌の先で舐め上げられ、ようやく自分のベッドの移ることができたのは、乱れに乱されて二本の脚が震えて立っていられなくなったときだった。