31


「ローラン」
「……なんですか」
「どうして呼びかけただけでそう警戒するんだお前は」
「いえ。背後から急に抱きつかれたりすると驚きますので、心の準備をしているのです」
「ほう……ふふふ、つくづくお前は面白いな。で、ロラン、実はな、もうじきサロメの誕生日なんだよ」
「サロメ殿の?」
「ああ。それで、ちょっとした祝いの席を作ろうかと思っている」
「ほう」
「本人に何がいいか訊いてみたんだが、大人数で騒がれるのは嫌だし、自分の誕生日を知っている人間はほとんどいないから、いつもの寝酒の席でおめでとうとでも言ってくれればいいと言っていた。それじゃ味気ないから、ロランと二人でプレゼントを用意しようかと思っているんだが、どうかな?」
「よいですね」
「何がいいと思う」
「……いきなり振られても分かりかねますな。サロメ殿のお好きなもので良いのではありませんか」
「サロメはなあ……自分の欲を言わないから私もいまいち分からんのだが。彼はハムステーキが大好物なんだ」
「ハムステーキ」
「うん。本人の口から直接聞いたことはないが、しょっちゅう食堂で注文しているというのを厨房に聞いてな。もともとサロメは肉が好きなんだ。ソーセージとかベーコンとか」
「へえ」
「だから最近腹が出てきたと嘆いていた。鎧の腹部がきついと。仕事が忙しくて食事する時間がバラバラなのもいけないんだと思うが」
「ふむ」
「健康診断も近いし……お前がプレゼントに肉など渡したら嫌味に取られかねないかもなあ」
「……」
「あとはなんだろうな。本が好きだが、書物は自分で選ぶだろうし、酒もそれほどたしなむというわけではないようだし……」
「クリス様の贈り物でしたらなんだって喜ばれると思いますが」
「そうなんだよな。もはや親子みたいな関係なんだよな……」
「親子……ああ、では少し労って差し上げるのはどうです?」
「労る?」
「肩を揉むとか」
「それじゃ孫と祖父の関係だ……いや、私がすれば喜ぶだろうが、お前に肩を揉まれるのはサロメも複雑だと思うぞ」
「ああ。自分の存在を忘れていました。二人で祝うのですね」
「ああー、決まらないなあ! 長年一緒にいても、こういうのはパッと思いつかないもんだ」
「定番ですが、ケーキなどはどうでしょう」
「ケーキか。厨房に頼めば作ってくれそうだな。ありがたみがないか?」
「そうでしょうか。繰り返しになりますが、クリス様がなさることはなんだって喜ばれると思いますよ」
「結局それか。何なんだろう、つまりあいつには私がいればいいのかな?」
「……究極ですが正解ですね……」

「……というわけで、今回はケーキとなった」
「ありがとうございます。私のためにわざわざ」
「すまない、ホールで頼むつもりだったんだが、ピースになってしまった。注文した厨房のおばさんに嫌な顔をされてしまってな。調理と仕込みのために一日中働いてるんだからでかいケーキなんて作れないって。城下町のケーキ屋は休業中だし……結局いつものデザート用のケーキだ」
「いえいえ、なんだって嬉しいのですよ。確かこのくるみのケーキはレオ殿の大好物だったはず。おいしいから食べてみろと以前言われたことがありますので良い機会です。ロラン殿もクリス様と一緒に考えてくださったようで、どうもありがとうございます」
「いえ」
「ロランが最初にケーキがいいんじゃないかって言ってくれたんだよ」
「そうなのですか」
「すみません、ありきたりになってしまい」
「いいえ。お気持ちだけで嬉しいですよ」
「あ、あとな」
「はい?」
「後で肩を揉んであげるよ」
「肩? ……ははは、ありがたい。デスクワークばかりで肩が張ってきたところでしたので、これを食べたらお願いしましょうか」
「ふふん。実はこのアイデアもロランのものなんだ!」
「…………え…………」
「…………」



32


「あ、あれ?」

 情事の後、自室へ帰るために着替えたロランがベッドから立ち上がるのを見て、クリスも見送りのためについて行こうとしたとき、ふと腰に違和感を感じて声を上げた。先に床に降りていたロランが振り向き、どうしたのですかと視線で尋ねてくる。
 いや、ちょっと……と腰を片手でさすり、再び動作を始めると、

「うっ?」

 かなり鋭い痛みが腰を襲った。顔をしかめたクリスに、ただごとではないと悟ったらしいロランが素早く近づき、ベッドに戻って端に腰掛けた。

「どうしました?」

 いつになく心配そうな表情。クリスは自分に何が起こったのか分からない驚きでロランの顔を丸い目で見つめ返し、おそるおそる口を開く。

「あ、あの、腰が痛い」
「腰?」

 視線をクリスの背中に移し、手を伸ばしてさすってくる。クリスは全裸の状態なので、素の手のひらで触られるのがこそばゆく、逃げようと身体に力を込めると再び強い痛みが襲った。
 恐怖を感じたのか、手を引っ込めたロランの白い顔が青ざめた。

「クリス様。先ほどおつらかったですか?」

 おそらく原因は挿入するときに腰を抱えられたことにあるのだろうが、ロランが極力女性の負担にならないよう気遣ってくれているのは毎度のことで、特別今回が激しかったというわけではない。きっと普段の疲労が溜まっていたことにも原因があるのだろう。
 不安げに訊いてくるエルフに、クリスはふるふると首を振った。

「ううん。さっきはそんなことなかったよ」
「しかし……無理をさせてしまったのかもしれません。ああ……」

 片手で口を押さえ、申し訳ないと暗い声で謝る。落ち込んでいる弓使いの様子にクリスの方が心配になってしまったが、確かにこれはただごとではない。明日も通常通り仕事があるのだ。この痛みでは立ち上がることすらままならないだろう。
 一度サロメが腰痛で寝込んだことがあったが、回復するまでだいぶ時間がかかったようだ。自分の身の災難に、クリスは今頃になって悩み始めた。

「うーん……どうしよう。寝たら治るかな?」
「安静になさってください。できるだけ動かないように」
「とりあえず服を着て横になるよ。ロラン、もう深夜だし、遅くなるのもよくないから自分の部屋に」
「何をおっしゃっているのです」

 急にロランの口調が剣呑になった。クリス様のおそばにいますと確固たる態度で言い、睦み合う前に脱ぎ捨てたワンピースを取り上げ、かぶせるようにクリスに着せた。
 さあゆっくり横になってくださいと身体を抱きかかえ、ベッドに寝かせてくれる。そのうえ毛布まで掛けられ、まるで介護されている状態にクリスは苦笑してしまった。

「何か必要なものがあったり手洗いに行きたいときは言ってください。控えております」
「馬鹿、寝ない気でいるのか? お前も疲れているだろうに」
「私が寝たらクリス様の看病ができません」
「看病って、私は別に病気じゃない。それにお前がそばにいたら寝づらいよ」

 むっと口を噤んでいる。しばらく待ってみたがベッドの脇に座ったまま動こうとしない男の気配に、クリスもとうとう観念した。

「分かった。でも、仮眠でいいから取ってほしい。一緒に寝よう」
「寝るにしても私はソファで寝ます」
「嫌だ」
「クリス様……もし隣に横になったとして、何かの拍子にクリス様を動かしてしまったらそれこそ災難です」

 ご勘弁を、と機嫌を取るためかクリスの額にそっと口づけ、立ち上がってソファの方に移動するロランを目線で見送る。残念だなあと呟いてみたが誠実な弓使いがクリスのわがままに応えてくれるはずもなく。
 沈黙が二人の間に訪れる。
 クリスも寝返りを打ったりするのが恐く、微動だにせずぼんやり天蓋を見つめているうちに、行為の疲労感からかそのうち眠ってしまった。
 次に目覚めると、ちょうどロランが近くに立ってクリスを心配そうにのぞき込んでいた。ちゃんと寝たのかと問いただしたところ、一瞬だけ眠ってしまったというストイックな答えが返ってくる。まだ明け方で集合まで時間がある時刻だったため、手洗いまで行くのを手伝ってもらった後すぐに自室に戻らせた。

 その日、やはり腰の痛みは軽減せず、一日中寝て過ごす羽目になった。クリスがなかなか部屋から出てこないことに慌てたサロメが一部始終を聞くと、瞬く間に鬼のような顔つきになって「あの男め」と呟き、今日一日クリスが休みを取るための手続きをし始めた。軍師の迫力にロランの身を案じたクリスはベッドに仰向けになったままロランをいじめてはいけない!と訴えたのだが、あとで医者を寄越すからとにかく寝ていろと短く吐き捨て出て行かれてしまった。
 軍師にこっぴどく叱られるのではないかと危惧したクリスはロランが心配でたまらず、しかし身動きが取れないのでベッドの上でしくしくと涙を流していた。ああ、きっと弓使いは今ごろ軍師にネチネチと責め立てられ、青ざめた顔で肩を落としているのだ……ロラン! ロラン、お前のせいではないのだからな!
 侍女に面倒を見られながら午前が過ぎ、昼休み、ロランが顔を見に来た。クリスが予測したほど落ち込んでいる様子のないロランに、念のため軍師のお咎めは無かったのかを尋ねると、どうやら嫌味を言われるのを避け午前の間サロメから逃げ回っていたらしい。
 真面目な男のまさかの展開にクリスは瞠目したが、恋人の胸中が穏やかなのは何よりである。侍女が気を遣って出て行った後、頭を撫でる弓使いの大きな手にうっとりしていると、バァンとドアが開いた。

 そこには般若のような顔をした軍師が立っていた。



33


 クリスはロランからちょっとしたものを貰うのが大好きだ。
 あまり他人にプレゼントを渡すような男でない印象があるが、実はゼクセへの出張があるとクリスに土産を買ってきてくれる。プレゼントと言っても大したものではなく、あめ玉の小さな瓶だったりチョコレートの小箱だったりと仕事の合間につまむ目的のものだった。クリスの部屋に寝酒を飲みに来る際、ゼクセで買ってきたと説明しつつ少し照れくさそうに差し出してくる。あまり自身の胸の内を出さないロランがそういったことをしてくれること自体、クリスには嬉しくて嬉しくて仕方なく、きっと彼が予想する以上に喜んでいただろう。
 ゼクセの出張の帰り、騎士団長の部屋に報告をしに来たロランが、書類と一緒に土産物をクリスに差し出した。だが、それがいつもの菓子ではなかったため、クリスは戸惑った。今回は草花の束だったのだ。数種類の野草の根本を紐で束ねてあり、見る限り花屋で買ってきたものではなさそうだった。
 これは?と首をかしげると、ロランは束を手に持ちながら静かに説明し始めた。

「ゼクセンの森で見つけました。これらには、それぞれ効能があるのです」
「こ、こうのう?」
「ええ、薬草ですから」

 小さな葉を指先で撫でながら目を伏せる男に、クリスはなぜか見入った。この草は腹痛に効き、この葉は傷口に、この花弁は煎じて……などと丁寧に教えてくれているが、野草を片手に凛と佇む涼しげな様子に恍惚として、その内容は頭に入ってこない。

「そしてこれが……
 クリス様?」

 不思議そうな顔のロランにハッと意識を戻し、クリスは慌てて微笑した。

「あ、ごめん、その……一度には覚えられなくて」
「ああ」

 そうですねとロランは優しく頷く。

「もし野外で怪我をなさったとき、野草は応急処置に使うことができます。森を通過しているときに不意に思いつきまして、参考までにと」
「うん。ありがとう、ロラン。嬉しいよ」

 野草の束を受け取り、手元に引き寄せて見下ろしてみる。きっと一度は道ばたで見かけたことがある草花なのだろうが、言われなければ気づかない、注意しなければ踏みつぶしてしまいそうなほどささやかな植物たちだ。
 そうか、とクリスは目元をほころばせた。
 彼は、価値を与えたのだ。クリスの中の、この小さな生き物たちの存在に。
 ありがとうともう一度心をこめて言うと、エルフは嬉しそうにほんのり笑んだ。



34


 あるときクリスから「ねえロラン、耳のピアスは自分で開けたの?」と訊かれた。業務中で書類を作成している最中であるため、できればそのような話題は仕事が終わった後にしてくれないかと密かに溜息をつき、無視をしたらしたで「ロランに嫌われた!」と軍師に訴え、そのくらいの雑談なら応えてあげればよかろうと非難されることを予測し、どこに向かっても自分に災いが降りかかるのであるな……と諦めてロランは自分の手元を見ながら返答した。

「はい」

 この短い言葉を口に出すことすらためらう自分も、周りが言うとおり真面目すぎるのだ。もう少し心の余裕というか、遊び心があってもいいのではないかとレオやパーシヴァルからしばしば文句を言われている。本人もその通りだと思っていた。
 クリスは、やや感嘆した様子で「そうなんだ!」と声を上げた。

「エルフ族は、みな耳にピアスをしているのか?」
「そうですね、大概は。まれに金属アレルギーの者がいるので、そういった者は無理に開けませんが」
「それは民族の伝統?」
「おそらく。つけていない方が不自然ですから……」

 エルフ族は物心ついた程度からすでに耳に穴を開けている。数については特に取り決めはないが、まじないのような意味合いも昔はあったのだろう。今ではすでにファッション的な要素になりつつある。
 そういえば自分はいつ穴を開けたのだろうか……と思わず手を止めて考え込んでいると、クリスがそそと近づいてきてロランの耳に触れた。予想していなかったため思わず肩を震わせてしまう。

「あ、ごめん」
「いえ」
「私、ロランを初めて見たときびっくりしたんだ。背が高いということに次いで、耳になんて数のピアスが付いているのだろうなってな。ゼクセンにはいないからな、ロランみたいにたくさん穴を開けている者は」

 耳の大きさという物理的な問題があると思われるが。
 多くのゼクセン人が集まるゼクセの街は、最も栄えている商港都市といえども保守的な人間が多く、衣服やお洒落に関してはかなり地味な方である。ブラス城の騎士たちも然り、体裁と風紀第一のため、ロランのようなピアスは論外だ。来て間もないときは、クリスの感想の通り、高い背丈と耳(耳の形というよりはピアスの方)に皆が注目しているのがよく分かった。
 かろうじて騎士団の風紀に引っかからないのは、これはお洒落ではなく民族的な意味合いが強いのであるという当時のガラハドへの申告によっていた。無論、民族を捨てるという観点からすればピアスなど外してしまえばいいのだが、いざ全て取り払ってしまうと今度は穴だらけの耳が皆の心を沈ませるのではないかというロランの真面目な忠告を周囲が素直に受け止めたのである。

「ロランの耳はすてきだなあ」

 凡庸な意見を述べ、クリスはロランの耳の先をくいくいと引っ張った。事後でもそうなのだが、彼女はこの行為が好きらしい。そのたびロランは妙な感覚(気持ちよさではなく、まさしく微妙な感覚)を抱いて沈黙してしまう。

「……」
「今度ピアスをプレゼントしてあげようか? ロラン」

 言われ、ロランは小さく呻いた。

「……お気持ちは嬉しいのですが、たぶん、こういったものをいきなり変えると詮索されるので」
「まあ、そうかもな。今しているシンプルなものが一番いいよ」
「はい」
「しかし……ロランの耳はすてきだなあ」

 同じ言葉を繰り返しながら、飽きもせずに耳先を引っ張ってくる。もしかして仕事中にいきなり耳の話題を振ってきたのは、これをやりたいがためなのではないかとロランは怪訝に思ったが、すごく嫌というわけではないので、クリスは放っておき奇妙な構図のまま仕事を再開することにした。



35


 評議会に出向いたあとゼクセからブラス城に戻るとき、ゼクセンの森で雨が降り出した。
 クリスの後ろを馬で歩いているのはロランだけである。行きはサロメとレオも一緒だったが、評議員が予算の関係でゴネたため、現在二人はゼクセに残って応戦中だった。城に戻ってからも仕事を抱えているクリスとロランが先に帰ることになり、その道中、ぱらぱらと木々の葉の合間から雫が落ちてきて、そういえば行きの時点で雲行きが妖しかったなと馬の手綱を引きながらクリスは溜息をついた。

「マントを持ってくるのを忘れてしまったよ」
「私も。持参するべきでした。申し訳ありません」

 弓使いが背後でしょげた声を出す。クリスは振り返らないまま苦笑し、気にするなと軽く片手を上げた。

「天候ばかりは予測できないさ」
「ええ。ですが、まだ大丈夫です」

 ロランの言葉の意味がよく分からず、クリスは首をかしげたが、きっとロランはエルフだから自然界のことにとても詳しくて、城に戻るまでは大雨にはならないと予測しているのだろうと身も蓋もないことを考え、特に聞きかえさずに納得することにした。
 しばらく他愛もないことを話しながらゼクセンの森の出口に来たとき、クリスは唖然とした。木々が徐々に少なくなる森の出入り口付近は、すでに土砂降りだったのだ。これは一体どういうことだと、口には出さないが気象予報士ロランを振り返ると、彼はいつもの無表情で、特に驚きもせず、すさまじい勢いで落下してくる雨粒たちを見つめていた。

「森の中は大丈夫でしたが、やはり外は駄目ですね。収まるまで少し待ちましょうか」

 淡々と放たれた台詞を聞いて、ああ、先ほどの「大丈夫」という言葉の意味はそういうことだったのかと、クリスはエルフのことを責めなくてよかったとホッとした。木々が茂っている森の中は葉が屋根になっていて、しかもその雨は木々の枝や幹を伝って下に降りるため(つまり自然の雨どいなのだ)、大雨であってもそれほど水害に遭わないのである。
 それはそれで、さすがエルフだ。クリスは隣に並んだロランを見上げ、自分のことのように得意げになった。

「うん、待とうか。しかし、木というものはすごいな。これだけの雨を受け止めて和らげてくれるとは」
「ええ」

 雨空を見つめながらほんのり微笑むロランが珍しくて、好奇心を抱いたクリスはわくわくしながら問うた。

「ロランは木が好き?」

 クリス自身でもよく分からない問いかけだったのだが、ロランは深々と頷き、

「ええ、大好きです」

 と、答えた。
 大好き、という言葉にクリスはぴくりと頬を動かした。
 ロランが何かに対して「大好き」と表現することが未だかつてあっただろうか。
 ぬう、と唸る。
 恋仲にある自分にさえ、そのような言葉は使ったことがないというのに、木に対しては強調語をつけて愛を告白するのか、この男は。
 いやしかし、木に嫉妬などな。
 もやもやしながらクリスは口を尖らせ、ふん、私も木に生まれれば良かったかなと意味不明な文句を言うと、ロランは案の定、頭の上にクエスチョンマークをつけて首をかしげた。



36


 ロランが買い物に誘ってくれた。
 ロランが休日の買い物にクリスを誘ってくれたのだ、あの個人行動で自由気ままなドライエルフが。
 約束の前日、クリスは嬉しさのあまり、ロラン不在の寝酒の席でサロメと喜びを延々謳歌してしまった。祝い酒であるワインが三本目に突入したところで、げっそりと疲れ果てた軍師が「私は明日、仕事なのです……」とふらふらしながら部屋を出て行ったが、もはや銀の乙女の眼中にはなく、次はベッドの中でバタバタと暴れて、明日着ていく服は何にしようかなあ!と頭の中にいろんな計画を張り巡らせていた。
 そして寝坊した。完全なる失態。しかも二日酔いで頭が痛い。
 非常にしんどいが、エルフとの約束を無碍にするわけにもいかない。かろうじて昨日用意していたブルーのワンピースに着替え、目の下の隈をどうにか化粧で隠し、髪の毛は結いたかったが休みの日は侍女も出勤しないため下ろしたまま、待ち合わせだったゼクセンの森の入り口まで向かった。ボートネックの灰色のシャツにタイトな黒いズボンを履いたロランは、三十分遅刻した戦乙女を馬と共に待っていたが、さすがに退屈していたのか、息を切らして来たクリスを呆れた目で見下ろした。

「クリス様……」

 おまえ……とでも続きたげな口調である。申し訳なさでおろおろと涙目になっている騎士団長に、弓使いは小さく苦笑して、とにかく行きましょうと馬にクリスを乗せて、自分もその後ろにまたがった。
 肩越しに振り返り、クリスは再三謝る。

「本当にごめん、ロラン」
「かまいません。サロメ殿から昨日の夜の話は聞いていましたので予想の範疇です」

 淡々と言う。それはそれで複雑なのだが。
 ゼクセの街に着くと、ロランの行きつけの呉服屋に向かった。どうやら彼はズボンを作ってもらうらしい。彼はとても背が高いため、市販の洋服ではサイズがないのだそうだ。店に入ると、もうすでにエルフのことはよく見知っている年配の穏やかそうな男性店長が、カタログを見せたり布を披露したりして、ずいぶんと長いあいだズボンについて議論していた。壁際の椅子で大人しく待っていたクリスが、もうよいですよと起こされるまで居眠りしてしまったほどだ。
 寝坊したくせになぜまた寝るのだ……と深く落ち込みながら店を後にする。直後、ロランが、あ、という声を出して、道ばたに出ていた露店に向かった。あらいらっしゃい、お久しぶりねえと壮年のふくよかな店員の女性が嬉しそうに言うので、どうやらロランの知り合いらしい。後ろからついてきたクリスの姿に気付くと、彼女はパッと目を輝かせた。

「あらまあ、クリス様も!」
「こ、こんにちは」
「まあーま、仲がよろしいですわねえ。ロラン様、また買ってあげるの?」

 ええそうですと素直に弓使いが頷いたので、一体何だろうと露店の商品を覗く。木の長テーブルの上に置かれているのは、クリスがよく出張帰りのロランから土産でもらう洋菓子だった。いくつかのカゴの中に、色とりどりの包装紙で包まれたキャンディやらクッキーやらが、まるで宝箱のように詰め込まれていて、クリスは思わず歓喜の声を上げてしまう。

「ロラン、お菓子がいっぱいだ……!」
「本当は通りにあるのが本店なのですが、たまにこうやって出店を出してくださるのです。
 いつものように詰めてください」

 あいわかったと、店員が紙袋の中に手づかみで色んなお菓子を入れていく。パンパンになったところで封をし、ニコニコしながらクリスに渡してくれた。それと引き替えにロランが代金を払う。

「ありがとうね。クリス様、ロラン様はいっつも私のお店でお菓子を買って帰るのよ。仲間のお土産にするんですって言いながら、実際はクリス様のためなのよねえ」

 そうなのか!?と驚きと喜びと期待でロランを見上げる。しかし、すでに彼は背を向けて、馬を待たせている方向に向かってすたすたと歩き出していた。ちょっと待って!と慌てて追いかけると、後ろから「末永くお幸せに!」という店員の声が聞こえてきたが、クリスはもう振り返ることができなかった。先行くエルフの耳の先が真っ赤になっているのを見て、自分も羞恥を覚えてしまい、顔が熱くて仕方がなかったからだ。



37


 この人を失ったらどうしよう、と、時々ロランは思う。
 朝焼けの光が差し込む部屋の中、二人が横になってしまうとやや狭いベッドに、幼げな顔をして眠っているクリスの姿がある。
 ゆるゆると水のように流れる銀の髪をシーツの上でもてあそびながら微かな溜息をつくと、気温の低い部屋だからか、吐息は白いもやとなって消えていった。
 美しい女性の、伏せられた長い睫毛が、もしこのまま二度と上がることはなく、まぶたの裏に隠されている紫の瞳が、もう何ものも映さなくなったとしたらどうしようかと、ロランは瞬きを忘れてぼんやりとした。

 甦るのは戦場の記憶だ。
 血潮を吹き出しながら次々と倒れていく人間。
 むごい殴られ方や馬に踏みつぶされたりして原型を止めていない身体。
 泣き声。
 断末魔。
 呻き。
 自分はそういった状況を作り出すことに荷担している。軍人だからだ。命令が出れば、素直に従って戦わなければならない。
 敵も味方も最小限の犠牲で抑えようとするのは当たり前のことだが、そういう意識があるからと言って己の手が汚れないわけではない。
 この両手は何度も血に染まった。

 “私たちは軍人だ”。
 確固たる意志を持ち、そう言い放つとクリスは少し哀しげに笑う。
 “そうだな”。
 彼女も分かっているのだ。それは諦めにも似た崇高な感情だった。

 この人を失ったらどうしよう。
 どうすればいいのだろう。戦う身である自分たちは、いつ死んでもおかしくないところにいる。もしかしたら何かあって明日には冷たくなっているかもしれない。
 もう二度、目が開かない、声が聞けない、話すこともできず、触れることもできない。
 死んだクリスはロランのことを忘れてしまうだろう。死ぬとはそういうことだ。相手の中から自分の存在が消えてしまうということだ。
 ロランの胸の奥が強くきしんだ。
 失いたくない。
 失わせてはならない。
 彼女を。そして彼女に愛されている自分自身も、また。

 ゆるゆると水のように流れる銀の髪は皮膚から解き放たれているため温度を持たない。
 この髪の温度だけは生きていても死んでいても変わらない。
 急に恐怖を覚え、手を伸ばしてクリスの頬に触れた。指の先に、ほんのりとした温かさがある。
 深く眠っているらしく、彼女は反応しなかった。

 呼吸をゆっくりと繰り返す彼女の姿が今ここにあることに、ロランは安堵し、泣きたくなった。