21


 どうしてこんなにも私を想ってくれるんだ?
 私から無理矢理近づいたも同然なのに。

 クリスはロランの腕に抱きとめられ、ソファに座っていた。ロランが背もたれに背を預け、彼の懐にクリスが収まっている形だ。
 広い胸に片耳をあて鼓動を聞きながら、クリスがそう言葉を発すると、男はクリスの髪を撫でた後、溜息混じりに答えた。

「クリス様。
 あなたは、私にはもったいないほど素晴らしい女性です。お美しく、気高く、清純な。
 本当はこのように触れることさえためらわれます」
「ロランに触ってもらえて私は嬉しいよ」

 クリスはロランの顔を見上げ、痩けた頬をさらりと撫でて微笑した。

「こうやって甘えさせてくれるのも嬉しい」
「未だ、よく分からないのです。なぜこんなふうに愛し合う……ことが……できるのか」

 紫の睫毛を伏せ、どこか申し訳なさそうにたどたどしく言う男の面持ちは、それでもやはり美しい。色白なため病的に感じられるが、種族特有の透きとおった肌は何物にも代えがたい。
 こんなに間近でこの男の顔を見られることさえ奇跡だというのになあ。
 苦笑し、クリスはロランの肩口に頭をもたれ、深呼吸をした。

「私も、ロランに好きになってもらえたのが不思議だよ。
 私を愛してくれてありがとう、ロラン」

 言葉に返事はなかったが、応えるために彼が頭に頬を寄せてくれたことが、クリスには嬉しかった。



22


 あるときロランがクリスの首もとをじいと眺めていた。
 始め、クリスは顔を伏せて仕事をしていたため気付かなかったのだが、ロランが処理済みの書類を持って部屋に入り、机の前に佇んだまま動かずにいる気配を不思議に思って顔を上げると、彼が無表情で自分を見下ろしている姿が目に入った。
 彼は、クリスの顔というよりも首もとをぼんやり眺めているようだった。そのときの騎士団長は甲冑を脱いだ状態で、ゼクセン騎士団のロングベストの下に黒いハイネックのシャツを着ていた。
 洋服に何か付いているのかと思って手で触ってみたが、それらしき感触はない。汚れだろうか? 鏡を見たいと思い、首もとに手を置きつつロランに念のため「何か?」と尋ねると、彼は淡々と答えた。

「考えていました」

 何を。クリスの怪訝な問いに、弓使いはほんの少し、よく見なければ分からない程度に笑みを浮かべ、

「どこまで首が隠れるのかと。
 どこまで、許されるのかと」

 その答えの意味するところにすぐにはピンと来なかったのだが、書類を置いて意味深に目配せをして部屋を去ろうとするロランの後ろ姿を見て、ハッと気が付いた。
 首に、何が、許されるだって?

「ロ……ロラン!」

 思わず顔を赤くして呼び止める。ロランは振り返り、やはり微笑――どこかいじわるにも見える――を浮かべ、軽く会釈してドアから出て行った。
 その後クリスは慌ててクロゼットを開き、開き戸に付いている鏡で首もとを見た。幸い、彼の残した印が見えているわけではなかったが、今、クリスが身に纏っているのは通常の仕事着、一日の大半を過ごしている格好なのである。もし弓使いの言ったことが今後実行に移されるというのならば、毎朝鏡で昨晩の愛の欠片を心配し、確認せねばならないのだ。
 もう! 耳まで紅潮させたクリスは恥ずかしさのあまり、ベッドに身を投げ出した。



23


 奇妙な物体がクリスの机の上にあった。
 どうやら布のようであるが、くちゃくちゃに丸められて無造作に書類の上に放ってある。あまり私物は置こうとしないクリスなので、仕事中の机にそういったものがあると違和感があった。
 布の地は茶色で、暗い赤色のチェックが入った柄だ。広げた時の大きさを予測するとハンカチのように思われたが、いかんせんしわくちゃになっているのと、その上に細い糸が何本か巻きつけられているため、それが一体何を意味しているのかロランには判断しかねた。
 しばらくその物体を見つめていると、奥の私室から出てきたクリスが弓使いの視線の先に気が付き、ハッとした様子で机に飛びついた。

「これはっ」

 手に取り、素早く後ろ手に隠している。みるみるうちに頬が赤くなり、彼女は居たたまれなさそうに立ったまま身を小さくした。
 正直ロランは、よく分からない状態の布を隠されることに純粋な疑問を覚えたのだが、ここまであからさまにされると訊かざるを得ない。色々な可能性が考えられるため、彼女を傷つけないよう極力慎重にロランは尋ねた。

「あの……それは?」

 するとクリスは、なぜかぷうと紅色の頬をふくらませ、拗ねた表情で机上を睨みつけたまま答えた。

「私には向いていないんだ」
「……は?」

 言わなくても分かるだろ、とでも言いたげな口調にロランは戸惑う。あの意味不明な布から察しろというのも無理な話だ。
 ロランは困惑しながら首を傾げ、もう一度尋ねた。

「ええと……すみません、一体なんのお話でしょうか」
「裁縫なんて向いてないんだっ」

 裁縫。
 この単語を聞いてロランはピンと来た。クリスは針と糸を使ったのだ。布に絡みついたあの訳の分からない糸は彼女の仕業であり、布はその犠牲者なのだ。
 穴だらけになったであろう布を不憫に思いつつ、彼女が重大な秘密を隠していたわけではないことに安心し、ロランは微笑した。

「何かを直そうとしたのですか?」

 するとクリスは急にしょんぼりと肩を落とし、後ろに回していた布をそっと前に持ってくると、実はな……と暗い声で説明し始めた。

「これ、サロメのハンカチなんだ。部屋に忘れていったから届けてやろうと思ったら、端の方がほつれてて……直してあげようって余計なことを考えたことがいけないんだ。そもそも裁縫なんて出来やしないのに、そんなことを試そうとするから……」

 親切どころか迷惑行為だ……と泣きそうになっている。
 ロランは彼女に近づき、つむじを見下ろした。クリスがこれほどまで自分自身を過小評価するのが以前から不思議であったが、こういった家庭的な仕事に関しては恐ろしいほど不器用であることは騎士団の中では暗黙の了解となっているため、ロランも下手にフォローはせずに「お気持ちだけで充分です」と言ってやった。

「サロメ殿もお喜びになるでしょう」
「うう……だって一枚無駄にしたんだ」
「ハンカチ一枚とクリス様の温かいお気持ちを比べたら」

 もしこのハンカチがハラス家の家宝であるなどということであれば話は別だろうが、クリスにはめっぽう甘い軍師だ、経緯を伝えたら破顔してクリスのことをべた褒めするに決まっている。ロランが心底大事にしている女性を傷つけることなどしないと確信を持てるところが、あの男の素晴らしいところだ。
 クリスは依然不満そうな表情でいたが、そうかな……と小さい声で呟くと、哀れなハンカチを机の上にそっと置いた。

「ならば、正直に言おう……しかし、憂鬱だ。きっとショックだろうな」
「そこまで落ち込まれなくても」
「だって」

 やや焦った様子でロランを見上げ、

「嫌だろう? ロランだって。女性らしいことが何一つできない女なんて」

 悲痛そうに訴えてくる。まあ結局のところそれなのであろうとロランは嘆息し、クリスの頭を撫でつけた。元より期待していないというのが本音であるが、普段の凛々しい姿に隠れていた女性らしい場面はもう幾度と目にしている。今更という感じだった。

「クリス様は、ありのままのクリス様でよいのです」

 優しく言ってやる。クリスはしばし大人しくロランに撫でられた後、むう、と悔しげな呻き声を漏らし、ロランの懐にそっと抱きついた。



24


 訊きたくても訊けないことがクリスには数多くある。
 それは専ら弓使いへの関心から始まるものだったが、つい近年まで恋愛のれの字も知らなかったためか、とにかく自分から行動を起こすことに対して躊躇があった。「これを質問して嫌われたらどうしよう」という器用な悩みではなく「恋愛において一体何をどうすればいいんだ」という不器用きわまりない混乱が、その恐怖心を引き起こしている原因である。
 だが、無知ということは時に武器にもなる。ロランが「クリス様は今までこういった経験がなかったから仕方がない……」と先回りして考えてくれたら運がよいのだ。彼は冷たそうに見えて意外に思慮深い性格であり、クリスを傷つけないよう極力注意を払っていることは分かっていた。
 なので、訊いてみた。今までずっと心に抱いていた弓使いへの疑問を。

「ロランはどんな女性が好き?」

 寝酒の席、首を傾げて尋ねると、口に含んだワインを吹きそうになるのをロランはこらえ、どうにか飲み下して咳払いをした後、困惑した様子で同じく首を傾けた。

「どんな、とは……あまり深く考えたことがございませんが」
「そうなのか? でも、たとえば色々あるだろう。物静かな人だとか、優しい人だとか、頭が良いとか……」

 言いながら、それに比べて自分はてんで駄目な女だと落ち込んでいったが、あまり卑屈になるとこの男は間接的にプライドを傷つけられて怒り始める。過去の学習を教訓にし、無難な程度に女性の性格例を羅列したクリスは、鬱々とした気持ちを押し殺して問うた。

「……とまあ、様々な女性がいるが、私はお前の好みに合っているだろうか?」

 結局のところ、好きな男の理想像を知りたいというのは、自分がそうなるために努力したいという願望から起きるものである。
 ロランは何やら複雑な面持ちでクリスを見つめていた。そのどこか呆れも含まれている眼差しに、自分が何か失言をしただろうかとクリスは不安になって再び尋ねた。

「あの……もし、こうして欲しいというところがあれば、直すし」
「クリス様」

 遮るように名を呼び、

「以前から何度も申し上げていますが、クリス様は、ありのままのクリス様でよいのです」

 溜息混じりに、ロランは言った。確かにこの台詞は過去何回か耳にしたことがあるのだが、本当にそれで良いのだろうかとクリスには疑問だった。そもそも“ありのままでよい”という言葉が示す自分の姿がよく分からない。もっと女性らしくなる努力しなければならないと常日頃から思っているのだが。
 私はそんな立派な女性ではないとうつむいて呟く。自分を卑下した時ロランが嫌な顔をすることは分かっていたものの、とにかくクリスには自信が無かった。
 しばらく重たい沈黙が続いた後、先に口を開いたのはロランだった。

「私が好きな女性は、今、目の前にいます。
 私にはそれで充分です」

 顔を上げると、薄く苦笑しているロランの表情がある。

「過酷な軍人という道を歩む二人が好き合い、命が未だここにあり、互いに側にいられる。それ以上なにを望めば良いのでしょうか」
「……言いたいことは分かるが」

 答えにはなってない。クリスの呟きに、ロランは「そうですね」と穏やかに返し、頷いた。

「答えは、これからでも探せるのではないですか。無理してつじつまを合わせようとしなくてもよいと思います」
「……」
「それとも、何か例を見つけた方がよいですか? 私は、たとえばこんな女性を好むというような」

 それはすなわち第三者である女性を例に持ってくるということだ。気付いたクリスに嫉妬心が芽生え、思わずぷるぷると首を横に振る。

「いや、いい……」
「強いて言うならば、私は、あなたの美しさと健やかさと無垢さが好きです」

 聞こえてきた真摯な男の言葉に、頬が熱くなる感じを覚えて顔を伏せた。自分で訊いておきながらこの様だ。
 しかしクリスは内心ホッとしていた。彼はこういった台詞をどの女性にも言えるような男ではない。目の前にいるのがクリスだからこそ口にしているのだ。それだけは紛れもない真実なのだ。
 ありがとうと呟くと、いいえと返すロランの優しい声が聞こえた。嬉しさでにやけた顔が元に戻るまで、クリスはなかなか顔を上げることができなかった。



25


 寝癖がついているなんて珍しい。
 隣で仕事をしているロランの髪の毛を横目で見ながら、クリスは思った。紫色の柔らかな髪の後頭部に、くるりと外側を向いている毛の束がある。まるで指に巻いてそういうカールをつけたかのようだ。
 普段から抜かりなく身なりをきちんとしている男なので、意外だった。クリスの部屋で営んだ時の髪の乱れはさておき、今まで一度も寝癖をつけて出勤したことなどない。
 自分も書類を書き進めている最中なのだが、どうしても気になってしまい、彼の手が一瞬休まったときにすかさずクリスは尋ねた。

「あの、ロラン。髪に寝癖がついてるんだが」

 咎めていると思われないよう極力明るくクリスが言うと、ロランはハッとした様子で上司を振り向き、その後しゅんとした。どうやら寝癖についての自覚はもともとあったようだ。
 この男がしょんぼりするなんて……とむずむずする感じを抑えつつ、男の反応を待っていると、そのうち彼は後頭部を撫でながら説明し始めた。

「朝、集合直前に気が付いたのです。慌てて鏡を見ながら直そうとしましたが、水だけでは無理でした。私は背が高いので周囲にはあまり気にされないだろうと、そのままにしてしまったのです」

 お見苦しい姿を……と真剣に落ち込んでいる。クリスは恋人を抱きしめたくなる衝動を必死に殺しつつ、それでも我慢しきれずふにゃりと笑ってフォローした。

「いいではないか、寝癖くらい。誰も咎めないさ」
「大変失礼をいたしました」
「ちょっと触っていい?」

 もう耐えきれない。
 クリスは腕を伸ばし、男の繊細な髪をゆっくりと撫でつけた。癖のある一部だけが掌を押してくる。
 ロランはかなり戸惑っていたようだが、団長の命令には逆らえなかったのか、されるがままになっていた。

「ふふ。ロランの髪はとっても気持ちいいな。私はお前の柔らかい髪が大好きだよ」
「……」
「寝癖がつくなんて羨ましいくらいだ。私は真っ直ぐで硬いし、色も冷たい感じがしてな」

 お前みたいにあったかい感じのする髪質は憧れだと言うと、ロランは不思議そうに目をしばたたかせ、「クリス様の髪の方がよっぽどお美しいです」と真面目に返してきた。
 本当にこの男は。
 クリスは苦笑し、彼の髪の触り心地をしばらく堪能した後、心底満足して再び業務に取りかかった。



26


「少し悪酔いしてしまいました」

 寝酒の席でロランが急にそんなことを言ったものだから、クリスは慌てた。恒例のクリスの部屋での寝酒の時間、サロメは先に退室し、ロランもそろそろ戻るのだろうとちびちび残りのワインを飲んでいたときのことだった。
 立ち上がった際、目が回っているのかロランがふらついたので心配になったクリスが回り込むと、彼は目をかたく閉じて唸り、近くのソファに崩れ落ちた。顔色が悪く(色白すぎるためもともと悪いが更に青白く)、頭が痛いらしく額を押さえてうなだれている。
 今まで酔いが回るなどと口にしたこともなかったので、てっきり酒に強いのかと思っていたが、そうでもないらしい。あるいはもともと体調が芳しくなく、無理をして寝酒に付き合ったということか。
 もし無理をしたならば、まったくこの男は……と胸中で呆れたが、悪酔いした時の気分の悪さをよく知っているクリスは、ロランの隣に座りながら顔を覗き込むことしかできなかった。こういうとき下手に声をかけたり動かしたりすると余計につらくなるのだ。
 ロランは瞼を閉じたまま静かに呼吸をし、体調を整えようとしているらしかった。もし気分が悪いなら、無理に戻らずここで過ごすといいと伝え、寝床を整えるために立ち上がろうとすると、かなり強い力で腕を掴まれた。普段にない荒々しさだったのでびっくりして振り向くと、黄金色の二つの目がじいとクリスを見つめていた。顔はいつもの無表情だったが、その真剣さに思わず息を呑む。
 深い金色の瞳だった。ゼクセンにはあまり見られない、不思議な輝きを宿す瞳だ。ボルスも淡黄色で美しい瞳をしているが、ロランの目はまた違った風合いで、角度によって色の明暗が変わったりする。光の具合で、時には金箔をちりばめたかのように虹彩がきらきらと輝くこともある。
 エルフでは典型的な瞳の色なのだろうか――ロランの視線に応えながら考えているうちに、クリスはハッと気が付いた。ロランが腕を放してくれていないのだ。動き出せないほどがっちり掴まれていて、軽く身動ぎして抵抗を試みても離れない。まるでどこにも行かせないと言っているかのようだった。
 一体どういうことだと男の顔色を窺うが、彼の面持ちは相変わらず何の感情も示していない。自分に向けられる深い色の眼差しに、クリスは急激に羞恥を覚えた。みるみるうちに全身が熱くなり、心臓がうるさく鳴り始め、顔や耳が熱を帯びる。仕舞いには掴まれている腕の指の先まで赤く色づいてしまった。
 恥ずかしい。この男に、こんなふうに真っ直ぐ見つめられるなんて。耐えきれなくなったクリスは目を伏せた。逃げたくて少し腕を引いてみたがびくともしないので諦め、男の次の行動を待つ。彼が何をしたいのか分からないが、どうやらいつものロランではないらしい。きっと酔いが回っているのが原因なのだ。
 どのくらいそうしていただろうか。不意にぐいと引っ張られ、あっという間にクリスはロランの懐の中にいた。パニックになり、ロラン!?と名を呼んで男を見上げようとすると、なぜかそれを阻まれる。ロランはクリスの頭を自分の胸に押しつけ、上から包み込むようにぎゅうと抱きしめた。
 全身から汗が噴き出る。恥ずかしさと激しい動悸でどうにかなってしまいそうだ。色々と文句を言いたかったが変な声しか出ない。逃げ出そうにも男の力で抑え込まれてしまっており、どうにもできなかった。
 己の非力さを嘆き、観念してしばらく懐に収まっていると、寝息が聞こえた。
 え、と驚き、少し力の抜けた腕を解いて見上げると、目を閉じた弓使いの寝顔が見える。
 まさか、この展開で嘘だろう……と放心していたが、どうやらこの男はクリスを抱き枕にして寝たかったらしいと考えつくと、急に嬉しくなって、そのまま弓使いの懐に収まり続けることを決めた。彼の体温も伝わってきてかなり暑かったが、耐えきれなくなるまでここにいたいとクリスはロランの胸に頭を預ける。
 酔っぱらうとこの男は甘えたがるのだなあ。だいぶ強引だけれど。
 しみじみ納得し、そうしているうちにクリスも瞼が重くなってきて、いつの間に眠ってしまった。
 その後、夜中に目覚めたロランが訳の分からない自らの体勢に驚愕し、だがなんとなく事情を悟って非常に反省したあと、懐のクリスを起こさないようにベッドに運び、ついでに額に小さく口づけをしてくれたところまでは、さすがのクリスにも知る由はなかった。



27


 ロランと仲良くなり始めてから、クリスは彼が歌が得意なことを知った。とても綺麗な声で、正確な音程を取って歌うのだ。
 彼は人前では歌わないと決めているらしく、そのことを知っているのはどうやら騎士団の中でクリスだけのようだった。クリスもまた彼の歌う姿を二人きりの時に偶然目にしただけで、それ以降、どうか歌を聴かせてくれと頼んでも「ご勘弁を」と恥ずかしがって、実行してくれることはなかった。

 夕方、業務終了後、なんとなく外を散歩していたとき、人通りのなくなった城下町から森へ出るための石橋の上に、ロランが佇んでいるのが見えた。彼はよく、橋の欄干のそばに立ってぼんやりと遠くの景色を眺めていた。そうしているのが好きというわけではなく、物思いにふけるときに無意識にそこに来てしまらしい。以前、ボルスにわけを尋ねられた時、そう彼が答えるのをクリスも傍らで聞いていた。
 弓使いは、近づいてくる騎士団長には気付かない様子で、まるでクリスが全く知らない人のような顔つきで、空か、あるいは彼方にある山々を見つめていた。夕日に照らされる黄金の瞳が暗く輝いているのが離れた場所からでも分かった。ただ単にぼんやりとしているだけなのかと思ったが、周囲に誰もいないのに彼の口元が動いているのを見てクリスは訝しみ、そしてハッとした。彼は、歌をうたっている。
 気付かれないよう、大回りをして後ろからそっと近づく。生き物の気配に鋭い男だ、もう振り向いても良いだろうというところまで来ても、彼は微動だにしなかった。まったく同じ姿勢で遠くを眺めたままで、その低く荘厳な響きの小さな歌声さえ、止むことはなかった。
 聞こえる歌詞にしばらく耳を傾けてみたが、ゼクセンで使われている言語とは違うようだった。彼の歌を以前一度だけ聞いたときと同じ、ゼクセンの民には真似できない独特な発音だ。旋律に聞き覚えがある。本人がそのとき説明したのだが、これは、エルフ族の中で大昔に使われていた言語の、非常に古い歌だということだった。
 あまり抑揚のない淡々としているメロディで、その響きはどこか悲しげだった。一体どんなことが歌われているのかクリスには全く分からない。きっと彼の故郷の森の集落で、遥か昔から伝えられてきた民謡なのだろうが。
 エルフの古い歌をうたっている。
 彼は懐かしんでいるのだ。
 故郷を。
 過去を。

 そのとき、目の前に佇んでいるはずの男が急激に、遥か向こう、彼が見つめている方向へ遠ざかっていく感じを覚えた。
 遠く、遠く。
 彼が想う場所へ。
 彼が愛おしみ、希っている場所へ。

 ああ。

 クリスは無意識に腕を上げる。

 そんなに恋しいのなら、お前はどうして森を捨てた?

 倒れ込むように前へ歩み、今にも消えようとする背中に手のひらを向ける。

 帰りたいなら、帰ればよいのだ。

 手は、もう少しで届きそうだった。

 そんなにも嘆くというのならば、この石の城を捨て、静かなる森へ。

 心ではそう唱えていながらも、声には出なかった。

 不意に、ようやく気配を悟った様子で、ロランは勢いよく後ろを振り向いた。ほとんどすれすれまで近づいていたクリスには、彼が一瞬で殺気を抱いたことを、戦う者としての哀れな性質上、感じ取っていた。
 ロランはびっくりした様子で間近に迫ったクリスを見下ろした。

「クリス様?」

 気付かれないうちに伸ばした腕を瞬時に縮めていたクリスは俯いたまま、ようやく見つけたぞ、と小さな声で言った。まるでつい先ほどまで彼を捜していたような疲れた口調で「実は業務で頼み事があるんだ」と、こういった理由ならば真面目な弓使いはなんの警戒も抱かずに城へと戻ってくれることを先読みして。
 案の定、ロランはクリスの嘘を鵜呑みにした。

「はい。では、城に戻ります」

 クリスは頷く。彼の隣をそっと歩き始めたが、まだ顔を向けることはできなかった。目に浮かんだ涙を見られたくなくて。



28


 その日クリスは非常にむくれていた。ゼクセの評議会の帰り際、サロメの代わりに付き添いで来たロランが困った顔をしているのは分かっていたが、どうにも腹の虫が治まらないのである。
 ブラス城に戻るため、街の入り口に預けてあった馬に乗る際、重たい沈黙に耐えきれなくなったのかロランが自ら口を開いた。

「あの、どうなさったのですか」

 待ってましたと言わんばかりにクリスは振り返り、

「許せないことがあった。だが、お前には言いたくない」

 断言すると、ロランはショックを受けたのか目を見開き、少し青ざめた。ロランがここまでの表情を見せるのは珍しいのだが、イライラしているクリスにはその様子も眼中になく、さっさと馬に乗り上げ手綱を引き、ゼクセンの森を進み始めた。いつになく慌てた様子で後ろからロランがついてくるのが分かる。
 クリスの苛立ちの原因はこれだ。
 評議会に出るためゼクセの街を歩いていたとき、街角の女性たちの会話が聞こえてきた。ロランは資料を用意するため先に評議会へ向かっていて、その現場に居合わせていなかったのが幸運だったと思う。
 若い女性が三人、きゃあきゃあと賑やかに世間話をしていた。始めクリスには全く興味がなかったのだが、彼女たちはゼクセン騎士団長の存在に気がつかないのか六騎士の男性陣について話し始め、思わず耳を澄ませたのである。

「やっぱりパーシヴァル様よ。頭がよくて顔も整っていて、おまけに紳士的で優しいときたわ。あんな旦那様が欲しいわよね」
「私はボルス様だわあ。美形だし、強いし、戦場では誰よりも先陣を切っているという話ではないの。おまけにお金持ちだし」
「やあだ、お金なんて。でも、六騎士様の中で選べって言われたら、やっぱりその二人よね」
「レオ様もよいところの出だし、捨てがたいけれど、ちょっと年が離れすぎてるわ」
「あとはサロメ様とロラン様」
「サロメ様はクリス様にぞっこんでしょ」
「ロラン様ねえ……」
「ロラン様はスタイルがよくて弓がお強くて、冷静沈着なのは評判みたいだけど……独特かしら?」
「ええ。取っつきにくいし、無表情だし、なんだか少し恐いわね」
「ロラン様のことを好きって人、あまり見たことがないわ。背が高い人が好みというなら分かるけど」
「いくらなんでも高すぎよ。二メートル超えてるのよ」
「確かに、見上げるこっちの首が痛いわよね」
「あの方が一番好きって人は物好きよ、物好き」

 彼女らの前を通り過ぎたクリスの火山はすでに噴火していた。女性たちはおしゃべりに夢中でクリスの存在には全く気がつかず、引き続きピーチクパーチクと甲高い声でゼクセンのゴシップを検証していた。
 評議会に出ている間もクリスの機嫌が直ることはなく、異常におっかない顔をした麗しき女性騎士団長の威圧感に出席者は皆たじたじになっていたが、いかんせん怒りの出所の検討がつかないため、せめて乙女の怒りが大爆発しないよう、通常より遥かに早く会議は切り上げられた。

「……差し出がましいかもしれませんが……」

 静まりかえっている森の中を馬で闊歩していたとき、ロランが再びおずおずと口を開いた(本来ならばロラン自ら口火を切ること自体が貴重なことである)。

「私が何か……クリス様の気に障るようなことをしてしまったのでしょうか」
「ロラン」

 低い声でクリスは唸る。

「馬を降りろ」
「……は?」
「馬を降りろと言っている」

 命じながらクリスも馬から飛び降り、後ろにいたロランに相変わらず恐い顔をして向き直った。ロランも首をかしげつつ馬から下り、クリスの真正面に佇む。馬たちが疑問そうに二人を見つめていたが、そのただならぬ雰囲気を感じ取り見守ることを決めたようだった。

「ロラン」

 呼びかけに、従順な弓使いが短く返事をする。途端にクリスは前へ走り出し、ロランの懐にびょんと飛びついた。鎧と鎧が触れ合う嫌な音が響き、驚いたらしい馬たちが後ずさった。

「ク、クリス様!?」
「ロラン、私はお前が好きだ」
「いったいなん」
「好きだ、お前が、一番に! 誰よりもなっ」

 言っている内容に比べればかなり勇ましい口調で、クリスは吐き捨てた。森中に響き渡ってしまっただろうが、ここは行き倒れも現れるほどの入り組んだ森である、滅多に人が通ることがないので現場を見られることも話を聞かれる心配も皆無に近い。しかし、それでもロランはクリスを引き離したいらしく、クリスの肩当てを両手でぐっと掴んだ。

「クリス様、もう少しお静かに」
「誰がなんと言おうとお前が好きなんだよ、分かったか!!」
「わ、分かりましたから」

 何がなんだか分からないと相当焦っているようで(再三言うが、この男のこういった姿は本当に希である)、ロランはクリスを落ち着かせるために手袋を取った手で頭をゆっくりと撫でつけ始めた。哀れかな、本当は外でこのような触れ合いは避けたい男だろうに、放っておくと剣先を向けそうな白き騎士の威勢を抑えるために、やむを得ない処置だったのだろう。
 しばらくクリスはムッとしたまま黙り込んでいたが、次第にロランの撫でる手が心地よくなって、しまいには無言で佇んだままうっとりしてしまった。
 ようやく平常心に戻ってきたクリスに安心したのか、ロランが頭上でふうーと細い息を吐いた。

「大丈夫ですか、クリス様?」

 顔を上げ、ゆるんだ口元のまま、クリスはこっくりと頷く。

「ああ」
「一体どうなさったのですか」
「なんでもない」

 まさか女性たちの会話をそのまま説明できるはずがない。実際は彼自身それほど気にしないだろうが、それでもクリスのプライドが許さなかった。馬の方に戻り、再びその背中に乗り上げる。やれやれ、ようやく終わったかというふうに馬がブルルと溜息をついた。
 肩越しにロランが馬に乗るのを確認し、再びゼクセンの森を進み始める。

「とにかく、私は誰よりもロランのことが大好きなんだよ。そういう話だ」
「はあ……」

 ありがとうございます……?と、やはり困惑気味に男が答える。気の毒だが、断じて説明はしてやらないつもりだ。
 先ほどのロランの大きな手の感触をじんわりと思い出す。クリスの苛立ちは、もうどこにもなかった。



29


「わああああん、ロランのばか!!」

 全裸でベッドの上に座り込み涙目になって叫ぶクリスをロランは冷静に眺めていた。クリスの部屋で営まれた情事の疲れにより、恐縮ながらそのベッドの持ち主の横で仰向けになっている。
 クリスは拳でぽかぽかと軽く男の腹を殴りながら、顔を真っ赤にして再度泣き叫んだ。

「これでは侍女たちにばれてしまうではないか!」
「はあ」
「はあ、じゃない! お前のせいだぞ!」

 首元を片手で押さえ、眉をつり上げている乙女を心底かわいらしいと思いつつも、ロランはあくまで淡々とした態度を崩さず返した。

「首を覆うものはないのですか」
「ない。というか、こんなところに跡がついては、もはや隠しきれん。だからいつも言っているのに、髪結いのとき侍女に見られるからやめてくれと!」
「クリス様がお逃げになるからです」

 ロランも負けじと応戦する。油断していたのかクリスはぐっと口を噤み、文句の代わりにぷうと紅色の頬をふくらませた。そんな様子もロランにかかれば全て愛おしい仕草に見えてしまうのだが、クリスにとっては本当に一生懸命な抵抗なのだ。
 だが、彼女も悪い。久々な夜の契りで、男がどれだけ欲望を持て余していたか分からないではあるまいに、あまりの羞恥でベッドの上から逃げ出そうとする女を抑えるために、ロランも我を失った。気がついたときには白い首をきつく吸い上げ、騎士の衣装では隠しきれないところに桃色のあざがくっきり浮かび上がっていた。首に残された情事の証を手鏡で発見して愕然となり、わあわあと喚き始めたクリスだが、自業自得だろうというのがロランの言い分だ。

「どうするんだ……こういうのはなかなか消えないのに。ロラン、お前はこれでいいのか!?」
「大変申し訳なく思っておりますが、もうどうしようもないことなのです」
「冷たい!」

 枕に顔を突っ込み、泣く真似をしている。ロランはすかさずクリスの銀髪を撫でつけ、よしよしと慰めてやった。

「髪結いの時ということは、髪結いをされなければ良いのでしょう。明日はこの美しい髪を下ろした状態で仕事に励むのはいかがですか」
「邪魔だ」

 顔を伏せたままなので、くぐもった声が聞こえる。

「気合いが入っていないと思われる。みっともない」
「そうでしょうか。皆、クリス様のあどけない姿を一目見たいと望んでいるのではないかと思いますが」
「このやろう!」

 急にクリスはロランの首もとに顔を埋めると、先ほどロランがしたように首の皮膚をかなり強く吸い上げた。今まで女性からそうされたことがないので、なんだか妙な気持ちになったが、抵抗はしない。ついでに軽く舌で舐められ、思わず小声を出してしまう。
 クリスはパッと顔を上げてロランを見下ろし、得意げな表情になった。

「これでおそろいだ。お前も明日一日ハラハラすればいいんだ」
「あいにく私はいくらでも首を隠す衣装があるので困りませんが」

 再び反撃すると、今度は悔しさのあまり泣きそうに口をへの字にしている。忙しい人だ。
 とうとう気力を無くしたのか、クリスはロランの胸に力無く寝そべった。

「はあ……別に嫌じゃないんだよ。でも体裁ってものがあるだろう」
「そうですね。申し訳ありませんでした」
「頭を撫でて欲しいな……」

 言われ、ロランは要望通りにクリスの頭を愛撫した。どうやら大きな手で撫でられることがクリスは大のお気に入りらしい。
 これで許されるのならば安いものだ。非常に満足そうなクリスを見つめ、ロランもまた心満たされた。
 心地よさに眠気に襲われ、次にロランが気がついたときは、すでに真夜中だった。クリスはロランに折り重なったまま幸せそうに眠っており、そろそろ自室に戻らなければならないと思うのだが、いかんせん彼女が自分の上に乗っているので動き出せない。
 やれやれ……と天蓋を見つめ、溜息をつく。このまま朝までここにいようか。朝の身支度の時に髪結いの方法でも教わろうか。
 そうすればあなたの心配事も無くなるでしょう?
 心の中で唱えつつ、クリスに視線をやる。無論クリスの反応はなく、ただ気持ちよさそうにすやすやと眠っているだけだった。



29-2


「はあーいクリスの旦那」

 男性宿舎を歩いているときに突然そんな呼び止められ方をしたためロランは度肝を抜かれ、すれ違いざま歩いてきた男の腕をぐっと掴んだ。「痛いなあ」などとのらりくらりと言うサヴァンストの顔をどういうつもりだと睨み付ける。クリスの親友は肩をすくめ、まったく悪びれた様子もなく言った。

「周りには誰もいないよ。僕がそんなヘマすると思う?」

 ふふんと得意げに笑うサヴァンストを見下ろし、確かにこの男はそういう点ではしっかりしているのだろうと溜息をつく。ロランの体裁を気にするというよりは親友クリスに被害が及ばないためだという考えが第一だろうが。
 ロランは腕を放し、できればそういった言葉は慎んで頂きたいと忠告する。

「万が一、がありますので」
「あれっ、僕ってけっこう信頼されてるんだ。てっきり君には嫌われてるんだと思ってたんだけど、嬉しいね」

 呆れるほどすらすらと言葉が出てくるところはパーシヴァルに通じるところがあるが、最大の相違点は、この男の中身が実は女だということだ。性別錯誤という障害を持つ感覚など、生まれてから自分は確かに男だと思ってきたロランには全く理解できない。しかも男性騎士の資格を有するところもサヴァンストの謎な点だった。厳格な家柄ゆえに障害が認められず、きっと幼い頃から様々な苦労があったのだろうが、この男については死ぬまで理解することなどできないだろう。ロランには彼の生き様は未知すぎて、それゆえに苦手意識があるのかもしれなかった。

「あのさあ、一つアドバイスしておきたいんだけど」

 人差し指を立て、

「君ってけっこう助平だよね」

 などと急にサヴァンストが言い出したものだからロランは顔面蒼白になった。驚きを通り越して瞬間的な怒りがわき起こる。

「サヴァンスト殿。少し黙っていただけますか」
「君って短気だよね。つい先日クリスの首にね、赤い印があったから、もしかしてと思って訊いてみたんだよ。そしたらクリスなんて言ったと思う?」

 問われ、親友の口から出るクリスの話題ならば聞き過ごすのもためらわれると怒りをどうにか鎮めて押し黙る。すかさずサヴァンストは自分で答えた。

「“虫に刺されてかゆい”」
「……」
「もうね、呆れた」

 クリスにというよりは君に、と盛大な溜息をつかれる。さすがのロランも言葉を失い、確かにそれは自分の過失かもしれないと反省した。

「他の人に言ってなければいいけどねえ。サロメ殿あたりは見つけてもスルーしてくれるだろうけどさ」
「……」
「クリスも困っちゃうからさ。君に愛されて心底幸せそうなのはいいんだけど、見えるところに跡つくっちゃだめでしょ」
「……」
「ま、クリスほどの子なら夢中になっちゃうのは分かるけど。おっと、人が向かいから来てるから、じゃあね」

 さらりと言い放ち、サヴァンストは風のように消えていった。
 ロランはしばらくその場に立ちつくし、背後から来た後輩に声をかけられたが「何でもない」と答え、のろのろと自室へ戻った。ベッドの上に腰掛けて頭を抱える。
 その辺のフォローをもう少ししっかりしておくべきだった。恋愛経験がゼロに等しい、そういった話題にも揉まれてこなかった純真無垢なクリス自身にはなんの罪もないのだが、その弱みにつけ込んでくる輩は大勢いる。ましてや男の巣窟であるブラス城である。
 どうかせめてパーシヴァル殿にはあの首の印、自分がつけた覚えのあるあの契りの証について突っ込まれていませんように、と、一体何に対して祈れば良いのかよく分からないので、とりあえず女神ロアにそう強く懇願しておいた。



30


 クリスの部屋に入ると香りがした。せっけんのような、とても清涼感のある優しい香りだった。
 芳香剤や香水を使わないクリスの部屋は無臭で、何か香るとすれば、クリスの服がクローゼットに吊しているポプリの匂いを纏っているときだ。彼女の部屋は執務室でもあるため、厳格な仕事に相応しくない芳香があるのは印象が良くないと団長自身が思っているようだった。
 なので、寝酒に来たロランは室内に踏み出したときに様々な可能性を考えた。珍しく芳香剤でも置こうと思ったのか、強い香りのある花を飾ったのか、あるいは部屋を訪れた誰かが漂わせていた香水の香りなのか――?
 クリスはソファに腰掛けて弓使いの訪問を待っていた。黒いロングワンピースを着ている彼女が裸足の両足を引き寄せて座っている姿はあまりに無防備で、この様子を目撃するたびロランは理性が吹っ飛びそうになる。
 にこにこと嬉しそうに笑っている彼女は、隣に弓使いを座らせるとサイドボードに置いてあった赤ワイン入りのグラスを渡してきた。ありがとうございますと礼を言い、ロランはすかさずクリスに問うた。

「あの、香りを纏っていらっしゃいますか」

 するとクリスは待ってましたと言わんばかりにきらきらした目でロランを見上げ、

「うん。昼間にな、侍女が芳香剤を置いていったの」

 あれ、と丸テーブルの方を指差す。そこには素焼きの小さなポットが置いてあり、確かにそちらの方に振り向くと香りが強くなるようだった。中にはポプリが入っているのだろう。
 ひとまずクリスの周囲に不審な人物がいたわけではないことに安心しつつ、よい香りですねと素直に告げると、クリスは「そうか!」と嬉しそうな声を出した。

「ロランは好き? この香り」

 まるで少女のように顔を輝かせて尋ねてくる女性を少し驚いて見つめ返しながら、ロランは頷く。

「え、ええ」
「そうか。侍女にな、たまには香りで楽しんでみればいいって言われたんだ。仕事で疲れているのを癒すのにも効果があるからって。
 ロランが好きな香りなら、またポプリを分けてもらおうかな」

 とてもご機嫌に言い、クリスは控えめにロランの方に身を寄せた。見下ろすと、頬をほんのり赤らめて微笑みながらちまちまとワインを飲んでいる恋人の姿。
 ロランもその様子にすっかり機嫌をよくして、良い香りに包まれながら二人身を寄せて幸せな寝酒の時間を過ごした。

 数日後の昼休み、書類を置きに団長の部屋に訪れたとき、急に嬉しそうに走り寄って「この前のポプリを侍女から分けてもらったよ」とうるうるした瞳で見つめてくるクリスに、日中だというのにロランはもうたまらずかわいらしい恋人を抱きしめた。